菅原神社磨崖仏:神仏習合

菅原神社磨崖仏全景

菅原神社磨崖仏は、霧島市隼人町松永にあります。

菅原神社磨崖仏説明版

江戸時代までは、人々は神と仏をあまり区別して考えていませんでした。神社のご神体が仏像であったり、たくさんの神仏に同時に願いを託したりするのは普通のことでした。このように神道と仏教が融合していた現象を「神仏習合」と言っています。

「菅原神社摩崖仏」は、「神仏習合」を表す具体例と言えます。これらの摩崖仏を製作したのは、菅原神社の神官たちでした。神官たちは、まさに自分たちが祭っている天神に祈るのではなく、仏像に祈る方が自分たちの願いが叶えられると思ったのでしょう。ではなぜ、彼らはそのように考えたのでしょうか。

実は、庶民の間では神仏はほとんど同じようなものとして認識されていたのですが、理論的には全く別の存在でした。「神仏習合」といっても、本当の意味で神道と仏教が「習合」(別々の教義や神々が同一視され、一体のものとして扱われること。「シンクレティズム」とも言う)していたのではありません。

宗教における習合現象は、世界各地に見られます。そもそも仏教も、ヒンドゥー教の諸神をその中に取り込んで、帝釈天や四天王といったような存在をその世界観の中に包摂しています。例えば帝釈天は、バラモン教・ヒンドゥー教のインドラにあたります。また、大乗仏教自体が、(歴史的実在の人物としての)ブッダの教えと在来宗教の折衷によって生まれた仏教であるといって差し支えないでしょう。

しかし日本の「神仏習合」では、神と仏に対してこのような包摂や統合、折衷は行われませんでした。ではどのように神仏は共存していたのかというと、仏教伝来から暫くの間は「神は人間と同じように苦悩しており、そのために仏による救済を求めている」という考え(神身離脱思想)が広まりました。こうして一つの世界観の中に神仏を位置づけようとしたのです。ところが10世紀頃になると「日本の神々は、実はインドからやってきた仏たちが姿を変えて降り立った存在なのだ」という「本地垂迹説」という考え方が広まります。例えば、天照大神の本地(本体)は大日如来、八幡神は阿弥陀如来、大国主神は大黒天、といったように、神と仏の関係が様々に案出されていきました。

「本地垂迹説」によって、日本の神の本質は仏だということになって神道と仏教が接続されたのです。しかし、これは仏教がヒンドゥー教の神々を取り込んだような意味で「習合」ではありません。あくまで、神の世界と仏の世界を別個に考え、それを裏側で理念的に繋いだのが「本地垂迹説」でした。これはむしろ、神仏を統合するというよりも、神の世界と仏の世界を併存させるという性格の方が強かったのです。仏教と民間信仰について研究した堀一郎も、日本の「神仏習合」においては「シンクレティズムとよべるほどの体系化は、ほとんど進行しなかった」と述べています。

確かに日本では、歴史のほとんどの期間において、神道と仏教は互いに争うことなく平和的に共存していました。しかしそれは、神道と仏教が融合していたのではなくて、むしろうまく棲み分けていた、といった方が当たっているでしょう。どのように棲み分けていたのかというと、最もわかりやすいのは死後の世界の扱いです。

近世までの神社神道では、死後の世界のことはほとんど全く扱いませんでした。死んだらどうなるのか、魂はどこへ行くのか、といったことには、神道はノータッチだったのです。死後の世界のことは完全に仏教の領域でした。神官の葬式も仏教式で行われました。もちろん死後の安穏を願う場合も、仏様に対して祈られました。

逆に、身近で卑近な願いについては神様へ願うことが一般的でした。商売繁盛、病気平癒といったような願いです。こういう現世利益的な願いを託すには、仏の世界というのは遠すぎました。例えば阿弥陀如来の極楽浄土は十万億の仏土の彼方にあると考えられていましたが、こんなに遠くにあっては、病気平癒のような願いは聞き入られそうにもありません。

菅原神社磨崖仏 「天神御本地」十一面観音

「菅原神社摩崖仏」に菅原神社の神官たちが仏像を刻んだ理由も、その願いが彼岸的(あの世的)なものだったからにほかなりません。たくさんの摩崖仏がありますから、いろいろな願いが託されていたのでしょうが、それは天神様には叶えられない、死後の世界のことが中心だったでしょう。とはいえ、本来は天神様の御利益を主張していたはずの神官たちですから、たくさんの仏像を刻むことに少しバツの悪い思いがあったのかもしれません。そこに天神の本地「十一面観音」を刻んだのは、彼らも神と仏の世界を接続する義理を感じていたからのように思われます。

【参考文献】
逵 日出典『神仏習合』
佐藤 弘夫『アマテラスの変貌—中世神仏交渉史の視座』
高取 正男『神道の成立』

★告知★12月5日、報告会やります!
 ↓ 
鹿児島磨崖仏巡礼vol.2 
日時 2020年12月5日(土)17:00〜19:00 
会場 レトロフトMuseo (〒892-0821 鹿児島市名山町2-1 レトロフト千歳ビル2F) 
<鹿児島市電>朝日通り電停より徒歩2分 
※会場には駐車場がありません。 
↓詳細はこちら 
http://nansatz.wp.xdomain.jp/archives/105 

要申込:定員25名 
参加料:1000円 
申込方法:↓こちらのフォームより申し込み下さい。定員に達し次第受付を終了します。
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