12月10日、「鹿児島磨崖仏巡礼 vol.6 —石材と磨崖仏」を開催いたしました。コロナ禍はまだ終わってはいないとはいえ、社会が平常化しつつあり、久々に通常に近い形での開催でした。やっぱり集まってワイワイするのはいいですね。
今回は、鹿児島における地質学の第一人者である大木公彦先生に講演してもらいました。大木先生の講演タイトルは「鹿児島の磨崖仏と石造物は火山の恵み?」。内容は盛りだくさんで、いろんな話題が盛り込まれていましたが、ごく大筋の部分だけご紹介します。
講演のキーワードは、「カルデラ」と「溶結凝灰岩」の2つ。カルデラとは、火山の噴火によってマグマだまりが空になって、そこが陥没したお椀状の地形のことですが、以下カルデラの中心となる火山のことも含めて使います。
さて、日本には後期更新世(60万年前以降)のカルデラが9つあるのですが、そのうち3つが北海道にあり、5つが九州にあります。本州は青森に十和田カルデラがあるだけで、ほとんどカルデラの空白地帯ということになります。
九州の5つのカルデラのうち、1つが熊本の阿蘇カルデラ。そして残り4つが南九州に集まっています。北から加久藤カルデラ、姶良カルデラ、阿多カルデラ、鬼海カルデラの4つです。まさに南九州はカルデラのメッカ!
しかも、北海道のカルデラはさほど大きな噴火をしていないのに比べ、九州のカルデラは後期更新世において何度も巨大噴火をしています。日本における最近の(後期更新世の)大噴火は圧倒的に九州が多いのです。
そして、大噴火によって出来る岩石が、溶結凝灰岩です。これは、大噴火による火砕流によって生まれる岩石。火砕流とはマグマの発泡現象で、炭酸飲料を(振って)開けた時に泡があふれ出るのと似たような原理だそうです。炭酸の泡があふれ出るように、大噴火によって発泡状態になった高温の噴出物が高速で山を駆け下ります。これは泡と同じで流体なので、低いところに真っ平らに堆積することになります。
こうして出来たのが、シラス台地! (シラスは方言だそうですが、シラス台地は歴とした地形用語だとのこと)
そう言われてみれば、シラス台地って、確かに真っ平らです。大隅半島の笠野原台地が平らになっているのはシラス台地の特徴だったんですね。
さて、火砕流堆積物は、元々は発泡したスカスカした物質(軽石など)なのですが、これが分厚く堆積すると、下の方は自重によって圧密されることになります。ギューっっと高温高圧で圧縮され、火砕流堆積物が堅くなってできたのが「溶結凝灰岩」。
溶結凝灰岩は、元は火砕流堆積物ですからシラス台地と同様に、真っ平らにできるものです。その特徴が非常に明瞭に出ているのが吉野台地。大木先生は「吉野台地は溶結凝灰岩の奇跡の一枚板」とおっしゃっていました。
溶結凝灰岩の特徴は、元が泡状なので空気がたくさん入っていて断熱性に優れることと、人が加工しやすいちょうどよい硬さであることです。だからこそ磨崖仏を含む石造物に盛んに使われたんですね。鹿児島の石文化は、まさに火山の恵みということになります。磨崖仏と言えば大分ですが、大分の磨崖仏も溶結凝灰岩に刻まれています。ただしこれは後期更新世のものではなく、さらに古い時代にできたものだそうです。
ちなみに火山岩(熔岩が固まってできる岩)は、あまりにも硬くて切り出すことが難しく、近代に便利な道具が使われるようになるまでは石造物にはさほど使われていないそうです。
もう一つの溶結凝灰岩の特徴は、噴出物の組成はもちろん、どのように堆積・圧密されたのかという条件がいろいろなため、一口に溶結凝灰岩といってもいろいろな色や硬さがあり、それどころか近い場所の同じ種類の溶結凝灰岩でも性質が違うということです。これが、同じ溶結凝灰岩に彫られた磨崖仏でも風化の程度がかなり違う理由です。
では、鹿児島にはどんな種類の溶結凝灰岩があるのでしょうか。先述の通り、これは過去の大噴火による火砕流に対応しており、石造物・磨崖仏に関係の深い主な火砕流堆積物は古い方から次の通りです。
鍋倉火砕流(約70万年前)
└天福寺磨崖仏、日木山宝塔(ただし塔身は砂岩製)など
吉野火砕流(約50万年前)
└鹿児島城の石垣など
加久藤火砕流(約33万年前)
└名突観音(梅ヶ渕観音)など
阿多火砕流(約11万年前)
└清泉寺磨崖仏、竜ヶ城磨崖一千梵字仏蹟など
入戸火砕流(約2.9万年前)
└赤水の岩堂磨崖仏、清水磨崖仏、高田磨崖仏など
こうして見ると、鹿児島は火砕流堆積物がどんどん重なって出来た土地だということがわかりますね。
なお、さきほど「一口に溶結凝灰岩といってもいろいろな色や硬さがあり」と書きましたが、特に阿多火砕流の溶結凝灰岩は、薩摩半島・大隅半島南部では赤っぽい色の石なのですが、北薩地域に分布するものは黒色できめが細かいものになっています。この黒色溶結凝灰岩は風化にも強く石造物には最高だそうです。確かに、同じ阿多火砕流でも清泉寺磨崖仏より竜ヶ城磨崖一千梵字仏蹟の方が彫りがクリアーですし風化も少ないです(もちろん、時代も条件も異なるので単純に比較はできませんが)。
様々な種類がある鹿児島の溶結凝灰岩の中でも最上級のものが、山川石(7万年前の福元火砕岩類)。山川石は黄色っぽい色で、きめが細かく加工しやすい上に風化にも強いという「超一級の名石」とのこと。山川石の宝篋印塔は、島津本宗家のみに許された特別な最上級品として扱われました。
ところが、見た目は山川石とソックリな池田石というのがあります。こちらは、約120万年前の石で、出来た時代は全然違うのですが見た目も組成も似ていて、科学的な分析をしなければわからないそうです(帯磁率が違うということでした)。
実際の講演では、たくさんの事例が紹介され、また石そのものも持ってきていただきました。本当に密度の高いお話をいただいて、「磨崖仏を火砕流で分類する」という視点は蒙を啓かされる思いでした。専門家は世界を違った目で見ていますね。
それになにより、石のことを語る大木先生がすっごく楽しそうで、その語り口にも魅了されました。「この石はいい!」と褒める一方で、「いっちゃなんだけど、これはたいした石じゃないんだよね」と率直に言うのも、本当に石を愛している感じが伝わってきました。聞いているこっちまで楽しくなってしまいます。
私(窪)は地理・地質は全く疎く、自分自身が勉強したいと思って今回のテーマを定めましたが、本当に勉強になり、また違った視点から磨崖仏を見ることができるようになった気がします。
さらに休憩を挟み、講演後のフリートークへ。まずは天福寺磨崖仏を中心として「磨崖仏の風化」について取り上げました。磨崖仏は野ざらし雨ざらしなので、風化は宿命とも言えます。では風化しないように樹脂などで固めるなどの保存措置を取るべきかどうか。
大木先生に伺ったところ、樹脂などで固めると石が呼吸できなくなり、かえって悪い場合もあるとのこと。また風化の要因は様々であり、現場を見ないとわからないとも強調されていました。さらに聴講していただいた東川隆太郎さんも交えての話となり、「保存措置を講ずるよりも、風化は避けられないものとして記録に力を入れた方がよい」との共通認識を得ました。
ところで、記録ももちろん大事ですが、磨崖仏については人々の記憶からなくなっていく「記憶の風化」こそ深刻だと感じています。風化以前に、道がなくなったり雑木に埋もれたりして場所がわからなくなった磨崖仏もいくつかあります。磨崖仏は受け継いでいくべき大事な文化財だとの認識を持ち続けることが保存以前に重要かもしれません。
ところで、先ほどの天福寺磨崖仏は、鹿児島の磨崖仏の中でも風化具合は随一です。私は、天福寺磨崖仏の風化は芸術的だと思っており、風化で生まれた曲線の妖艶さなどたまらなく好きです。しかし、どうしてこんな風化しやすい岩に磨崖仏を彫ったのか?
実は、天福寺磨崖仏のある山の反対側には、総禅寺跡があり、こちらの方がずっと石質はいいとのことです。なのに敢えて石質のよくないこちらに磨崖仏を彫ったのはなぜか? 東川隆太郎さんは、そちら側にはすでには総禅寺等がすでにあったわけで、追加でお寺を建てられず、しょうがなくこちら側に建てたのでは? との考えでした。
一方、川田達也さんは天福寺磨崖仏の始まりについて考察し、同地の鍋倉洞窟の中にある磨崖連碑に注目。磨崖連碑は鎌倉・室町時代のもので、鹿児島では江戸時代には存在しないので、おそらく天福寺磨崖仏の始まりは鍋倉洞窟にあるのでは、とのことでした。私としても、中世に鍋倉洞窟が神聖視されて磨崖連碑がつくられ、それにあやかって戦国末に天福寺が「再興」されて、磨崖仏も追加で作られたと考えたいと思います。
ここで大木先生からは、実は鍋倉洞窟は、右側と左側で石質が違うという指摘があり、これまた専門家ならではのアプローチだと思いました。ちなみに鍋倉洞窟は溶結凝灰岩のスキマに液状化現象で泥が嵌入したことで縄文時代にできた洞窟だそうです。
最後になりますが、これまでの「鹿児島磨崖仏巡礼」では「大隅半島にはなぜか磨崖仏が少ない」ということをたびたび言ってきました。ところが、大木先生と東川さんの両方から「そんなことはない。君たちが見つけていないだけ。垂水だけでもいっぱいあるよ!」と教えていただきました。そうだったのかー!
ということは、「記憶の風化」どころか、大隅半島の磨崖仏の多くは地域外に全く知られていないということになります。そういう磨崖仏の掘り起こしをして、「こいつは面白い!」と面白がることが鹿児島磨崖仏巡礼の使命(?)だと思っております。また来年に講演会+フリートークを開催したいと思いますので、どうぞお楽しみに!!