小路磨崖仏は、薩摩川内市東郷町斧渕小路にあります。
元来、密教は大日如来への現世利益的な信仰を枢軸とします。しかし平安期以降、全国的に阿弥陀信仰が盛んになり、現世利益よりも浄土への憧れが強くなると、密教でもそれを取り入れて大日如来と阿弥陀仏(阿弥陀如来)は同体であるという理論が生まれました。大日如来への信仰は阿弥陀仏へのそれと同じだというのです。この阿弥陀信仰化した密教を「密教浄土教」と言ったりします。
密教浄土教においては、大日如来と同体であるところの阿弥陀仏を信仰するわけですが、それを具象化したのが「紅頗梨色(ぐはりしき)阿弥陀像」です。普通の阿弥陀仏を拝んでも十分だったはずですが、大日如来と同体であることを形態的に示すためだったのでしょう、この紅頗梨色阿弥陀では通常の阿弥陀仏と若干違う点が見られます。
第1に、宝冠を戴いているという点です。通常の阿弥陀仏は、如来形をしているため、宝冠はつけていません。如来形というのは、悟った姿ということで、一切の装飾が排されています。一方、菩薩形というのは修行中の姿であり、宝冠や瓔珞(ようらく=アクセサリー)などきらびやかなものをまとっています。しかし大日如来は如来でありかつ菩薩であると考えられましたので、如来でありながら宝冠や瓔珞を身につけた姿で表現されました。紅頗梨色阿弥陀もこの考えを受け継ぎ、如来でありながら宝冠をつけて表現されています。
第2に、「定印(じょういん)」という印相を結んでいることです。印相とは、指で様々な形を作ることで、例えば阿弥陀仏には「来迎印」が多く見られます。これは右手を挙げて左手を下げ、共に掌を前に向けてそれぞれ親指と人差し指で輪を作るものです。一方「定印」は腹前に左手の上に右手を重ね、両手の親指の先をあわせて輪を作るもので、大日如来(胎蔵界)に典型的ですが、阿弥陀如来が定印をする場合には特に「法界定印」と呼んでいるようです(「妙観察智印(みょうかんさつちいん)」ともいう)。
第3に、紅頗梨色という名前のとおり、身体が紅く彩色されていることです。これは、金剛法界において五色を五方に配するときに西方蓮華部(阿弥陀が配されている場所)が赤に当たることからそうされると言います。ただし、体そのものが紅いのではなく、紅い光を放つとか身体自体は金色であるなどいろいろな説があります。
第4に、台座が特殊です。紅頗梨色阿弥陀は、横たえた五鈷金剛杵(ごここんごうしょ)の中央から独鈷金剛杵(どっここんごうしょ)の茎が出て、その上の蓮華に座しています。ただしこうなっていない作例もあり、例えば紅頗梨色阿弥陀像として有名な東京都板橋区の安養院(真言宗)では、孔雀の上に座しています。
さて、この独特な紅頗梨色阿弥陀がどう信仰されたのかというと、特に「紅頗梨秘法」というものがありました。これは阿弥陀如来を供養する(拝む)方法で、空海撰と伝わる「無量寿如来供養作法次第」では次のように説明されています。
面前に於いて、安楽世界を観ぜよ。瑠璃を地となし、功徳の乳海あり。その海中に於いて■[梵字:キリーク]字を観ぜよ。大光明を放つこと紅頗梨色の如し。遍く十方世界を照らす。その中の有情、この光に遇う者は、皆苦を離るること得ざるなし。この字輪は変じて独股と成る。首上に微妙の開敷せる紅蓮華ありて、横の五股の上に立つ。即ちその華変じて無量寿如来身となる。宝蓮華満月輪の上に在り。五智の宝冠を着して、定印に住す。身相は紅頗梨色なり。頂上より紅頗梨光を放つ。無量洹沙世界を照らし、皆悉く紅頗梨色なり。
『弘法大師全集』第2集より
これが「紅頗梨秘法」ですが、これは今の言葉で言えばイメージトレーニングということになります。
まずは瑠璃を地とする「安楽世界」をイメージし、そこに梵字キリークを思い浮かべる。それが紅い光りを放って世界中を照らす様を思い描き、次にその字輪(月輪の上にある梵字)が独鈷杵(独股)となる。この独鈷杵の上に紅い蓮華が咲いて、横たえた五鈷杵(五股)の上に立つ。このようにイメージすると、その蓮華が無量寿如来(阿弥陀如来)になり、これが月輪上にある紅頗梨色如来だ、ということです。
この「紅頗梨秘法」を踏まえてみれば、小路磨崖仏はこれを修するために造営されたのではないかと考えられます。月輪中に彫られたキリーク字、紅頗梨色阿弥陀如来の様子などはそれを明確に示しているようです。ところが問題なのは、紅頗梨色阿弥陀が宝珠形の中に収まっているということです。これについては「紅頗梨秘法」ではなく、別の信仰を表しているのかも知れません。『無量寿如来供養作法次第』との関連から、私は「密観宝珠」に関連していると考えていますが真相は不明です。あるいは、教義上の意味はなくデザイン上の工夫という可能性もあります。
ちなみに、『無量寿如来供養作法次第』は空海撰とはなっていますが、鎌倉時代前期までにこれが流布された形跡がないことから、実際に「紅頗梨秘法」が成立したのは鎌倉時代で、像容の完成は鎌倉時代以降と考えられているそうです。
【参考文献】
鍵和田聖子「大日即弥陀思想の事相的研究」
苫米地誠一「紅頗梨色弥陀像をめぐって③—道場観を中心に—」