久住阿弥陀山磨崖仏は、薩摩川内市久住町にあります。
磨崖梵字は、普通、円の中に刻まれます。ところが久住阿弥陀山磨崖仏では、四角の中に刻まれた梵字が見られます。
なぜ普通は梵字が円の中に刻まれるのかというと、密教で行われる観想法が関係しています。「観想」というのは、イメージトレーニングのことです。何段階もの観想があり、順を追ってそれを行うことで悟りの境地へと導かれるのだそうですが、その基礎に「月輪観(がちりんかん)」があります。
ここでは詳細は述べませんが、「月輪観」とは心の中に美しい月輪=満月が存在することをイメージし、その清浄なありさまと一体不離となる観想法です。
そしてその月輪の中に梵字の「阿字」を思い浮かべるのが「阿字観(あじかん)」です。「阿字」は金剛界大日如来を表す種子(しゅじ)でもありますが、「阿字観」では万物の根本という意味で使われます。この「阿字観」を修することで、全宇宙(正確には「一切衆生」)と自己とが同体であると認識されるそうです(「阿字観」『興教大師覚鑁全集』による)。
こうした観想法があることから、梵字といえば月輪中に思い浮かべるものと相場が決まっていましたし、磨崖梵字として表現する場合も月輪=円の中に描くのが当然でした。
しかし、久住阿弥陀山磨崖仏の場合、四角の中に梵字が刻まれています。これは一体どのような信仰に基づくものなのでしょうか?
実はこのような「四角の中に刻まれた梵字(ここでは仮に「方形内梵字」と呼びましょう)」は少ないながら他にもあります。例えば久住阿弥陀山にほど近い倉野磨崖仏です。中心的な存在である「オーンク」は月輪内にありますが、両側の梵字は全て「方形内梵字」になっています。
【参考】倉野磨崖仏:梵字
近接した二つの磨崖仏の両方に「方形内梵字」があることは、おそらく偶然ではないのでしょう。この地域には、もしかしたら独特な信仰が存在したのかもしれません。
この地域を含む川内川流域一帯は、中世には「渋谷氏」という一族が治めていました。渋谷氏の本拠地は相模国渋谷庄(神奈川県綾瀬市、藤沢市、海老名市等にまたがる地域)で、東京の渋谷も、渋谷氏が領有したことから名付けられた地名です。渋谷氏は、薩摩半島北部を領有していた千葉常胤(つねたね)が宝治合戦(1247年)で討たれた結果、その領地を源頼朝から与えられます。
本拠地から遠く離れた薩摩国の所領は、渋谷氏の次男以下の五男に分割(東郷、祁答院、鶴田、入来院、高城)して与えられ、やがてその子孫達が所領地に移住しました。その移動は、一族はもちろん家臣を引き連れてのものであり、一家につき50家500人程度の規模が推測され、最小でも全体で2500人規模の移住が行われたと考えられています。こうして関東から大挙してやってきた渋谷一族が、北薩に一大勢力を持つことになりました。
渋谷氏が元来どのような信仰を携えて鹿児島にやってきたのかは、よくわかりません。しかし中世においては一族の結束を保つために信仰は重要でしたから、渋谷氏のアイデンティティと結びついた信仰があったのかもしれません。
なおこの磨崖仏が製作された南北朝期には、渋谷氏は禅宗を受容し菩提寺として龍游山寿昌寺を創建します(※)。久住阿弥陀山磨崖仏の願主と考えられる入来院重門は寿昌寺を篤く保護しました。寿昌寺は臨済宗聖一派の寺で、この宗派は臨済宗の中でも真言宗や天台宗をとりいれた禅密兼修の習合禅とでもいうべきものです。
ちなみに、川田達也さんによれば川内川流域には戒名を(石に彫らずに)墨書きした墓塔が多く、これも他の地域とは異なる特徴だそうです。渋谷氏との関係は不明ですが、方形内梵字といい、墨書き墓塔といい、川内川流域には少し変わった独特な仏教文化があったようです。
※寿昌寺の創建については、寺伝などにおいては入来院家初代定心によるものとされていますが、史料での初見が延文二年であるため実際には南北朝期の創建と考えられています(上田純一『九州中世禅宗史の研究』)。
【参考文献】
小島 摩文編『新薩摩学 中世薩摩の雄 渋谷氏』
上田 純一『九州中世禅宗史の研究』