「鹿児島磨崖仏巡礼vol.7—磨崖仏と修験道」、改めて修験道に向き合いました!

12月15日(日)、「鹿児島磨崖仏巡礼vol.7—磨崖仏と修験道」を開催しました。これまでこのイベントは名山町のレトロフトで開催してきましたが、レトロフトの空きがなかったのでサンエール鹿児島の研修室での開催でした。

今回、特別基調講演を務めてくださったのは森田清美先生。森田先生が著した、かごしま文庫『さつま山伏』(春苑堂出版)は、鹿児島の修験道について初めて全貌を描いた名著です。

これまで、磨崖仏と修験道は深い関係があるんじゃないのかという気がしていたのですが、そのことに向き合う機会がありませんでした。そこで森田先生から修験道のことを学んで考えてみたいというのが今回の主旨でした。

さて、森田先生は『さつま山伏』を書いた頃のことから話してくださいました。これは春苑堂出版の企画でコンペティションがあり、数名が手を挙げたそうです。その中には大学教授もいたらしいのですが、見事、森田先生が選ばれます。

完成した『さつま山伏』は、大学の先生からは「つっこみが足りない」というような批判もあったものの、「それなりに売れました」とのこと。

森田先生は、黎明館の設立準備室(鹿児島県明治百年記念館建設調査室)にも8年在籍したそうです。そんなお仕事もしていたとは初めて知りました。はっきりとは言ってませんでしたが、森田先生は教員としてはいわゆる「出世コース」にいたみたいです。でもいろんなところで研修を受けたりしているうちに体調を崩します。

ところが、「本を書いたら元気になった!」のだとか。

そして黎明館の設立準備室の後に、あえて「荒れた高校行きたい」といって配属されたのが串木野高校。当時は生徒が教師に暴力をふるい、教師も生徒を暴力で指導するような状態だったのですが、森田先生は決して暴力は使わず、生徒と向き合ってじっくり話すことを選びました。すると次第に教室が落ち着き、生徒の態度が変わってきたそうです。その時、「教育ってこんなに面白い仕事なんだ」と感じたということでした。

そんな串木野高校時代に研究したことをまとめたのが、南日本出版文化賞を受賞した『ダンナドン信仰』。隠れ念仏と修験の関わりについて考究した本です。

こんな感じで、森田先生は前置きとしてご自分の人生や研究について語ってくださいました。修験道と直接の関係はないながら面白かったです。在野的な立場で研究をしていくというのは、研究と人生が交わっていかざるをえませんし、それが面白いところですよね。

本題に入って、森田先生は大学の授業で使っている講義資料に基づいてご講演くださいました(森田先生は志學館大学で非常勤講師をされています)。よってその要約は難しいので、大筋だけ簡略にまとめます。

日本人にとって「山は魂の居場所」とされ、人の魂は山からきて山へ帰っていくという思想があります。修験道の根本にはこの感覚があるのではないか。また、山は水分(みくまり:水の分配)をつかさどる神であり、自然への畏怖の大きな対象でありました。

修験道は、役小角(えんのおづぬ)という伝説的な行者に仮託されて平安時代後期に生まれます。修験道は、山で修行をし、験力(げんりき)という不思議なパワーを得る宗教です。山は曼荼羅に見立てられて、修験者はそのパワーをもらいます。

ちょっと非科学的にも見えますが、「呪術者とか占い師っていうのは、人が生きるか死ぬかっていう時に頼る場合は、それが大きな助けになる場合もある」と森田先生はおっしゃいます。

また、仏教の修行では欲望を離れるということが大事ですが、修験道の場合は「欲望を肯定する」と森田先生。欲望を肯定して、それを自然の力で昇華させるのが修験道だと。しかし修験者の中には、他人の苦しみを自らが引き受ける(代受苦)という人もいて、そういう人たちはしばしば捨身行(しゃしんぎょう)を行いました。「火定(かじょう)」という焼身自殺や「入定(にゅうじょう)」という生き埋めでミイラになる行などです。鹿児島でもそういう事例はあるそうですが、鹿児島の場合は湿気が高いのでミイラは残っていません。

なお、江戸幕府は修験道を「修験道法度」によって規制し、天台宗の聖護院(本山派)と真言宗の醍醐寺三宝院(当山派)の権威を公認して、修験者はいずれかの宗派に属させました。よって、わずかの地方修験を除き、修験者はこのどちらかの系統に位置づけられます。

鹿児島では、大崎にあった飯隈山飯福寺照倍院が本山派。ここが「年行事(ねんぎょうじ)」といい、壱岐・対馬・薩・隅・日をまとめる役割だったそうです。また、坂元村にあった般若院は当山派。般若院は「袈裟頭(けさがしら)」といって、ここも修験者のとりまとめ寺院でした。

修験道では、実際に霊山で修行するということが大事だったのですが、特に大峰山(奈良県)に何回登攀するかということが修験者の資格や昇進に大きく影響しました(しかも33回とか必要な登攀の回数がかなり多いのです)。ですが、鹿児島から大峰山に何度も登攀するって難しいですよね。どうしていたのかと思ったら、「実際には一回しか登っていないくても、お金を払って資格を買ったりしていた」そうです。なるほど。

ところで、大峰山ではある場所より先が「女人禁制」になっていました。また、多くの霊峰にも女人禁制がありました。鹿児島でも霧島山華林寺東光坊錫杖院では女人禁制だった形跡があります。

ところが、高隅山、冠嶽、甫与志岳(肝付町)では明らかに女性が参詣登山しています。森田先生は「鹿児島では女人禁制の伝説はあるが、それを厳格に守っていた確証はない」との考えでした。

なお、鹿児島で修験道といえば、島津氏が戦いの諜報に修験者を利用していたとか、戦の際の重要な決断に神社で引いた鬮(くじ)を使っていたというエピソードもあります。

ここまでが講義で、その後、冠嶽で行われた護摩の様子と、奥駈け(大峰山の修行)の様子をDVDで見せていただきました。特に奥駈けではかなり危険で急峻な箇所を登攀していてびっくりしました。また、護摩の時の読経(真言?)や、奥駈けの際に唱える「懺悔 懺悔 六根清浄(ろっこんしょうじょう)」という言葉が、とても音楽的だったのが心に残りました。修験道は身体性を重んじる宗教ですね。

この講義の後、今度は鹿児島磨崖仏巡礼の私たち二人(窪・川田)が、修験道が関係ありそうな5つの磨崖仏について紹介しました。

(1)清水磨崖仏「月輪第梵字」 弘長4年(1264)

南九州市川辺町にある、県指定文化財のすばらしい磨崖仏です。
ここは、今は失われた銘文に「彦山住伴侶□□坊敬白…」とあったという記録があります(『河邊名勝誌』)。九州の修験道の中心地である彦山(英彦山)の修験者が、わざわざ川辺まで来てなぜこの立派な梵字を彫ったのか、謎です。

(2)赤水の岩堂磨崖仏 建武2年(1334)

かなり山深いところにある磨崖仏です。はっきりと修験者が作ったということは書いていませんが、寺院ではなく山に製作されていることと、銘文に「成円」という人が作ったとあり、この人は坊津の一乗院を中興させた真言宗の僧侶と同名なので、修験道も関係あるかも? というものです。

(3)七人山磨崖連碑 延文2年(1357)

さつま町湯田にあります。これは銘文では修験道のことは出てきませんが、地元の伝説で「山伏がつくった」とされています。真偽のほどは定かでありません。

(4)桂樹院跡の磨崖梵字 寛永19年(1642)

駐車場のコンクリ吹付の法面に残された磨崖仏です。ここには、「法印権大僧都…、〇岩永壽大姉」の銘文があります。
「権大僧都(ごんのだいそうず)」とは、僧侶のランクのことで、修験者によく見られます。そして、江戸幕府の決まり(寺院諸法度)では僧侶は妻帯が禁じられていたのですが、修験者は妻帯が認められていました。ということは、これは修験者とその妻が作った磨崖梵字であることはほぼ確実と言えます(「大姉(だいし)」は女性の法名)。

(5)自現坊滝の磨崖仏 正徳4年(1714)

これは喜入の住宅街のすぐ近くの渓谷にある磨崖仏です。今回のイベントのために調査したのでやや詳しく書きます。この磨崖仏には次の銘文がしっかり残っています。

奉造立聖如意輪観世音薩埵
施主中村清右衛門藤原清房
権大僧都自現坊覚光開當瀧 ←
岩洞令住居干時正徳四正月日
奉読誦法花一千部貴賤成佛道
佛作者鹿府住人青木清右衛門

「←」をつけた行が大事なんですが、当日の史料ではここが欠落しておりました! 参加された皆様、申し訳ありません。

この銘文によれば、中村清右衛門という人が如意輪観音を造立し、「権大僧都自現坊覚光」(※当日「覚現」と言ってしまったんですが間違い。訂正します)が、この瀧を開き(←という意味がなんなのかは不明ですが、)正徳4年に岩洞を住居として法華経を1千部読誦して、多くの人が仏道を成就することを祈った、ということです。この「覚光」は修験者と思われます。「権大僧都」+「〇〇坊」は修験者と考えてまず間違いありません。

なお、川田さんによれば、この法華経読誦は「如意輪求聞持法(ぐもんじほう)」という修法に則ったもののようです。

それはともかく、何より注目したいのはこの如意輪観音の完成度の高さです。横に彫られた灯明台からの光までも計算に入れた、秀作中の秀作です。ぜひ見ていただきたいですね。会場でもその素晴らしさにどよめきが起こっていましたよ。

…という紹介をしたところ、このイベントはいつも時間オーバーなのですが、今回も時間切れで終了しました。本当はもうちょっと「磨崖仏と修験道」のかかわりについて考察したかったのですが残念でした(自業自得)。

そこで、当日語り漏らしたことをここで書きます。

鹿児島の磨崖仏は、「そもそも変わり者が作った」というのがこれまでの鹿児島磨崖仏巡礼での認識です。体系的な教義とか思想に基づいているのではなくて、「変わり者のパッション」が磨崖仏の根幹にあります。

なので、磨崖仏と修験道の関係は個別的かつ散発的なものであろうと予想されるのですが、ここで気になるのが(1)で出て来た英彦山や北部九州の事情です。

英彦山には今熊野磨崖仏がありますが、ここに月輪梵字があって、清水摩崖仏との関連が想像されます。

また、大分の国東半島には多くの磨崖仏が造立されています。特に、巨大な不動明王像で有名な熊野磨崖仏(豊後高田市)は、六郷満山(ろくごうまんざん)の峰入り修行の入り口になっており、修験道と密接なかかわりを持っていそうです。ちなみに六郷満山とは、国東半島の中心にある山とその周辺の寺院群の総称で、山岳信仰の聖地の一つです。

というわけで、北部九州では、磨崖仏と修験道がどうやら結びついているらしいのです。とすれば、南部九州でも同様な関係があってもおかしくないのでは?? 特に英彦山の修験者が鹿児島にも出入りしていたとすれば、修験道の磨崖仏文化を伝えることもあったかもしれません。

このことをより考察するには、英彦山や六郷満山など北部九州の修験道・山岳信仰・磨崖仏について勉強する必要がありそうです。磨崖仏と修験道との関係は、もうちょっと深く考察していきたいと思っています。

というわけで、最後は尻切れトンボになってしまいましたが、ご参加ありがとうございました。また折を見て開催したいと思いますのでよろしくお願いします。

※毎度のことですが、当日の写真を撮るのをスッカリ忘れておりました。

【参考】私の読書メモの記事です(やや専門的です)。
『修験道史入門』時枝 務・長谷川 賢二・林 淳 編|書径周游
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/01/blog-post_5.html

「鹿児島磨崖仏巡礼vol.7 —磨崖仏と修験道」を開催します!

一年が経つのは早いもので、前回のイベントからもう1年が過ぎようとしています。

というわけで、今年も磨崖仏のイベントを開催いたします。今回も、有識者による講演+トークライブを行います。

今回のテーマは「修験道」です!

これまでも、磨崖仏と修験道には関係があるのではないか? という話はしてきました。まず、清水磨崖仏には、彦山(英彦山)から来た修験者(と思われる人)が刻んだという記録が残っており、修験道と深い関係があったことは間違いありません。次に、桂樹院跡の磨崖梵字については、「権大僧都」と刻まれていることから、おそらく修験者が彫ったと考えられます。

ですが、磨崖仏全体を通じてみると、修験道との直接的な関連はあるのかないのか、はっきりしません。修験道には山岳信仰の要素が大きいので、磨崖仏との親和性があるのはまちがいないのですが、私もそのあたりのことは深く考えていませんでした。

そこで今回は、鹿児島の修験道研究の第一人者である森田清美先生に特別基調講演をお願いしました。

森田清美先生は、鹿児島における修験道の受容と展開について長年研究を続けてこられ、『さつま山伏』(鹿児島文庫35 春苑堂出版)をはじめとして多くの著書を刊行されています。今年6月にも『高野山信仰と霧島山信仰——薩摩半島域における修験道の受容と展開』(鉱脈社)を上梓されました。

当日は、修験道とはいかなる宗教か、山岳信仰との関係、そして薩摩藩における修験道のひろがりや民俗文化に残る影響などについて、みっちりと講義していただく予定です。磨崖仏だけでなく、鹿児島の民俗文化を考える上では外せない修験道について、この機会に一緒に学びましょう!

鹿児島磨崖仏巡礼vol.7 —磨崖仏と修験道—

要申込:定員25名
参加料:1000円
申込方法:↓こちらのフォームより申し込み下さい。定員に達し次第受付を終了します。
https://forms.gle/FxmVbQMqEjahFQy89

日時 2024年12月15日(日)14:00〜16:00
会場 サンエール鹿児島 4階 中研修室3
   ※いつもと会場が違います。ご注意ください。

「鹿児島磨崖仏巡礼vol.6 —石材と磨崖仏」、溶結凝灰岩を学びました!

(撮影:東川美和さん)

12月10日、「鹿児島磨崖仏巡礼 vol.6 —石材と磨崖仏」を開催いたしました。コロナ禍はまだ終わってはいないとはいえ、社会が平常化しつつあり、久々に通常に近い形での開催でした。やっぱり集まってワイワイするのはいいですね。

今回は、鹿児島における地質学の第一人者である大木公彦先生に講演してもらいました。大木先生の講演タイトルは「鹿児島の磨崖仏と石造物は火山の恵み?」。内容は盛りだくさんで、いろんな話題が盛り込まれていましたが、ごく大筋の部分だけご紹介します。

講演のキーワードは、「カルデラ」と「溶結凝灰岩」の2つ。カルデラとは、火山の噴火によってマグマだまりが空になって、そこが陥没したお椀状の地形のことですが、以下カルデラの中心となる火山のことも含めて使います。

さて、日本には後期更新世(60万年前以降)のカルデラが9つあるのですが、そのうち3つが北海道にあり、5つが九州にあります。本州は青森に十和田カルデラがあるだけで、ほとんどカルデラの空白地帯ということになります。

九州の5つのカルデラのうち、1つが熊本の阿蘇カルデラ。そして残り4つが南九州に集まっています。北から加久藤カルデラ姶良カルデラ阿多カルデラ鬼海カルデラの4つです。まさに南九州はカルデラのメッカ!

しかも、北海道のカルデラはさほど大きな噴火をしていないのに比べ、九州のカルデラは後期更新世において何度も巨大噴火をしています。日本における最近の(後期更新世の)大噴火は圧倒的に九州が多いのです。

そして、大噴火によって出来る岩石が、溶結凝灰岩です。これは、大噴火による火砕流によって生まれる岩石。火砕流とはマグマの発泡現象で、炭酸飲料を(振って)開けた時に泡があふれ出るのと似たような原理だそうです。炭酸の泡があふれ出るように、大噴火によって発泡状態になった高温の噴出物が高速で山を駆け下ります。これは泡と同じで流体なので、低いところに真っ平らに堆積することになります。

こうして出来たのが、シラス台地! (シラスは方言だそうですが、シラス台地は歴とした地形用語だとのこと)

そう言われてみれば、シラス台地って、確かに真っ平らです。大隅半島の笠野原台地が平らになっているのはシラス台地の特徴だったんですね。

さて、火砕流堆積物は、元々は発泡したスカスカした物質(軽石など)なのですが、これが分厚く堆積すると、下の方は自重によって圧密されることになります。ギューっっと高温高圧で圧縮され、火砕流堆積物が堅くなってできたのが「溶結凝灰岩」。

溶結凝灰岩は、元は火砕流堆積物ですからシラス台地と同様に、真っ平らにできるものです。その特徴が非常に明瞭に出ているのが吉野台地。大木先生は「吉野台地は溶結凝灰岩の奇跡の一枚板」とおっしゃっていました。

溶結凝灰岩の特徴は、元が泡状なので空気がたくさん入っていて断熱性に優れることと、人が加工しやすいちょうどよい硬さであることです。だからこそ磨崖仏を含む石造物に盛んに使われたんですね。鹿児島の石文化は、まさに火山の恵みということになります。磨崖仏と言えば大分ですが、大分の磨崖仏も溶結凝灰岩に刻まれています。ただしこれは後期更新世のものではなく、さらに古い時代にできたものだそうです。

ちなみに火山岩(熔岩が固まってできる岩)は、あまりにも硬くて切り出すことが難しく、近代に便利な道具が使われるようになるまでは石造物にはさほど使われていないそうです。

もう一つの溶結凝灰岩の特徴は、噴出物の組成はもちろん、どのように堆積・圧密されたのかという条件がいろいろなため、一口に溶結凝灰岩といってもいろいろな色や硬さがあり、それどころか近い場所の同じ種類の溶結凝灰岩でも性質が違うということです。これが、同じ溶結凝灰岩に彫られた磨崖仏でも風化の程度がかなり違う理由です。

では、鹿児島にはどんな種類の溶結凝灰岩があるのでしょうか。先述の通り、これは過去の大噴火による火砕流に対応しており、石造物・磨崖仏に関係の深い主な火砕流堆積物は古い方から次の通りです。

鍋倉火砕流(約70万年前)
 └天福寺磨崖仏、日木山宝塔(ただし塔身は砂岩製)など
吉野火砕流(約50万年前)
 └鹿児島城の石垣など
加久藤火砕流(約33万年前)
 └名突観音(梅ヶ渕観音)など
阿多火砕流(約11万年前)
 └清泉寺磨崖仏、竜ヶ城磨崖一千梵字仏蹟など
入戸火砕流(約2.9万年前)
 └赤水の岩堂磨崖仏、清水磨崖仏、高田磨崖仏など

こうして見ると、鹿児島は火砕流堆積物がどんどん重なって出来た土地だということがわかりますね。

なお、さきほど「一口に溶結凝灰岩といってもいろいろな色や硬さがあり」と書きましたが、特に阿多火砕流の溶結凝灰岩は、薩摩半島・大隅半島南部では赤っぽい色の石なのですが、北薩地域に分布するものは黒色できめが細かいものになっています。この黒色溶結凝灰岩は風化にも強く石造物には最高だそうです。確かに、同じ阿多火砕流でも清泉寺磨崖仏より竜ヶ城磨崖一千梵字仏蹟の方が彫りがクリアーですし風化も少ないです(もちろん、時代も条件も異なるので単純に比較はできませんが)。

様々な種類がある鹿児島の溶結凝灰岩の中でも最上級のものが、山川石(7万年前の福元火砕岩類)。山川石は黄色っぽい色で、きめが細かく加工しやすい上に風化にも強いという「超一級の名石」とのこと。山川石の宝篋印塔は、島津本宗家のみに許された特別な最上級品として扱われました。

ところが、見た目は山川石とソックリな池田石というのがあります。こちらは、約120万年前の石で、出来た時代は全然違うのですが見た目も組成も似ていて、科学的な分析をしなければわからないそうです(帯磁率が違うということでした)。

実際の講演では、たくさんの事例が紹介され、また石そのものも持ってきていただきました。本当に密度の高いお話をいただいて、「磨崖仏を火砕流で分類する」という視点は蒙を啓かされる思いでした。専門家は世界を違った目で見ていますね。

それになにより、石のことを語る大木先生がすっごく楽しそうで、その語り口にも魅了されました。「この石はいい!」と褒める一方で、「いっちゃなんだけど、これはたいした石じゃないんだよね」と率直に言うのも、本当に石を愛している感じが伝わってきました。聞いているこっちまで楽しくなってしまいます。

私(窪)は地理・地質は全く疎く、自分自身が勉強したいと思って今回のテーマを定めましたが、本当に勉強になり、また違った視点から磨崖仏を見ることができるようになった気がします。

さらに休憩を挟み、講演後のフリートークへ。まずは天福寺磨崖仏を中心として「磨崖仏の風化」について取り上げました。磨崖仏は野ざらし雨ざらしなので、風化は宿命とも言えます。では風化しないように樹脂などで固めるなどの保存措置を取るべきかどうか。

大木先生に伺ったところ、樹脂などで固めると石が呼吸できなくなり、かえって悪い場合もあるとのこと。また風化の要因は様々であり、現場を見ないとわからないとも強調されていました。さらに聴講していただいた東川隆太郎さんも交えての話となり、「保存措置を講ずるよりも、風化は避けられないものとして記録に力を入れた方がよい」との共通認識を得ました。

ところで、記録ももちろん大事ですが、磨崖仏については人々の記憶からなくなっていく「記憶の風化」こそ深刻だと感じています。風化以前に、道がなくなったり雑木に埋もれたりして場所がわからなくなった磨崖仏もいくつかあります。磨崖仏は受け継いでいくべき大事な文化財だとの認識を持ち続けることが保存以前に重要かもしれません。

ところで、先ほどの天福寺磨崖仏は、鹿児島の磨崖仏の中でも風化具合は随一です。私は、天福寺磨崖仏の風化は芸術的だと思っており、風化で生まれた曲線の妖艶さなどたまらなく好きです。しかし、どうしてこんな風化しやすい岩に磨崖仏を彫ったのか?

実は、天福寺磨崖仏のある山の反対側には、総禅寺跡があり、こちらの方がずっと石質はいいとのことです。なのに敢えて石質のよくないこちらに磨崖仏を彫ったのはなぜか? 東川隆太郎さんは、そちら側にはすでには総禅寺等がすでにあったわけで、追加でお寺を建てられず、しょうがなくこちら側に建てたのでは? との考えでした。

一方、川田達也さんは天福寺磨崖仏の始まりについて考察し、同地の鍋倉洞窟の中にある磨崖連碑に注目。磨崖連碑は鎌倉・室町時代のもので、鹿児島では江戸時代には存在しないので、おそらく天福寺磨崖仏の始まりは鍋倉洞窟にあるのでは、とのことでした。私としても、中世に鍋倉洞窟が神聖視されて磨崖連碑がつくられ、それにあやかって戦国末に天福寺が「再興」されて、磨崖仏も追加で作られたと考えたいと思います。

ここで大木先生からは、実は鍋倉洞窟は、右側と左側で石質が違うという指摘があり、これまた専門家ならではのアプローチだと思いました。ちなみに鍋倉洞窟は溶結凝灰岩のスキマに液状化現象で泥が嵌入したことで縄文時代にできた洞窟だそうです。

最後になりますが、これまでの「鹿児島磨崖仏巡礼」では「大隅半島にはなぜか磨崖仏が少ない」ということをたびたび言ってきました。ところが、大木先生と東川さんの両方から「そんなことはない。君たちが見つけていないだけ。垂水だけでもいっぱいあるよ!」と教えていただきました。そうだったのかー!

ということは、「記憶の風化」どころか、大隅半島の磨崖仏の多くは地域外に全く知られていないということになります。そういう磨崖仏の掘り起こしをして、「こいつは面白い!」と面白がることが鹿児島磨崖仏巡礼の使命(?)だと思っております。また来年に講演会+フリートークを開催したいと思いますので、どうぞお楽しみに!!

「鹿児島磨崖仏巡礼vol.6 —石材と磨崖仏」を開催します!

お久しぶりです! 早速ですが、今年も「鹿児島磨崖仏巡礼」を開催します。昨年に引き続き、有識者を招いての講演+トークライブです。

今回は、磨崖仏を含む鹿児島の石造物の前提となる「石材」について勉強してみたいと思います。前回は「岩石信仰」について学びましたが、今回は「石」そのものですね。鹿児島県の岩石や地質についての第一人者、大木公彦先生にみっちり1時間半講義していただきますので、ぜひご聴講をお願いいたします。

大木先生の話の後で、いつも通り磨崖仏に関するフリートークをします。今回は、石材を知って磨崖仏への理解を深め、また磨崖仏の風化や保存についても考える機会となればと思います。

鹿児島磨崖仏巡礼vol.6 —石材と磨崖仏—

日時 2023年12月10日(日)16:00〜18:00
会場 レトロフトMuseo (〒892-0821 鹿児島市名山町2-1 レトロフト千歳ビル2F)
<鹿児島市電>朝日通り電停より徒歩2分
※会場には駐車場がありません。

要申込:定員20名
参加料:1000円
申込方法:↓こちらのフォームより申し込み下さい。定員に達し次第受付を終了します。
https://forms.gle/FxmVbQMqEjahFQy89

<特別基調講演> 大木公彦 先生
「鹿児島の磨崖仏と石造物は火山の恵み?」
(約1時間半)

 日本の磨崖仏は大分県が有名ですが、鹿児島県にも多くの磨崖仏と石造物が存在します。その理由のひとつに、大分県と同様に火砕流堆積物の存在がありそうです。約60万年前以降の日本では大規模火砕流を発生させたカルデラが9つあります。そのうちの4つが南九州にあります。それぞれのカルデラから複数回大規模火砕流を発生させていることから、約60万年前より古い火砕流堆積物を含めると、南九州には38以上もの火砕流堆積物が識別でき、その中の多くは自らの圧密と温度によって硬い溶結凝灰岩になっています。比較的柔らかく加工しやすい溶結凝灰岩は、古くは平安時代から切り出され、様々な石造物として使用されました。石材として使われた溶結凝灰岩は、少なくとも12を数えます。また、鹿児島の著名な磨崖仏の多くもこれらの溶結凝灰岩に刻まれています。
 4つの異なるカルデラが存在し、時代を超えて大規模噴火を起こしたおかげで、性質の異なる様々な溶結凝灰岩の石材を産する鹿児島は、日本でも特異な石の文化を持つ地域と言って良いでしょう。この多様な石材についてお話ししたいと思います。

大木公彦(おおき きみひこ)
1969年より鹿児島大学理学部に勤務し地質学の教育研究に携わる。2001年から鹿児島大学総合研究博物館・理工学研究科教授、2005年から7年間、総合研究博物館館長を務める。2012年鹿児島大学名誉教授。南九州から琉球列島に至る地域の過去300万年間の大地の動きを調査研究。一方で、この地域の周辺海域の堆積環境についても調査研究を行う。最近は火砕流堆積物の研究を発展させ、石造物(薩摩塔など)や碇石、古墳の石棺などの石材を調査研究。鹿児島県地学会会長、鹿児島県環境影響評価専門委員、桜島・錦江湾ジオパーク推進協議会委員等。

↓チラシです。ご自由にお使い下さい。

「鹿児島磨崖仏巡礼vol.5 —岩石信仰と磨崖仏」、吉川宗明さんを招いて盛大に開催!

12月18日(日)、「鹿児島磨崖仏巡礼vol.5 —岩石信仰と磨崖仏」をレトロフトMuseoにて開催しました。

今回は、三重県から来ていただいた吉川宗明さんによる特別基調講演が目玉です。

が、それに先だって、私の方から鹿児島の磨崖仏の特徴について20分ほど講話しました。時代ごとの特徴、表現内容の特徴、立地の特徴などについて、今まで意外とまとめていなかった事項について語りました。

また、そうした区分に当てはまらないものとして、「荘厳(しょうごん)磨崖仏」という新しい概念を用いることを提案しました。「荘厳する」とは、仏教用語で「厳かに飾りつける」という意味です。自然の景観・岩を「荘厳する」ために作られたと思われる磨崖仏を「荘厳磨崖仏」と呼ぶことにしたいと思っています。

例えば、「内山田陰陽石の磨崖梵字」「野間岳磨崖仏」「下浜滝磨崖仏」といったものが「荘厳磨崖仏」です。これらは、磨崖仏がなくても人々がそこに神聖性を認めていたのは間違いありません。さらにそこに磨崖仏(梵字)を彫ったことで、その聖性を強調・見える化していると考えられます。

というか、自然のままの景観を信仰していた人にとっては、そこに磨崖仏を彫るのは余計な行為だと感じたかもしれません。しかし磨崖仏を彫った人は、「磨崖仏があることで、ここがもっと有り難い場所になった!」と思っていたのでしょう。場所の持つ神聖性をどう捉えるか、昔の人の考えも、当たり前ですが一枚岩ではありません。

……という話の後で、遂に吉川さんによる特別基調講演です。

吉川さんは日本の岩石信仰研究の第一人者ですので、我々も非常に期待しておりました。当初の予定では1時間10分ほどということでしたが、吉川さんのあふれ出るパッションによって1時間半を超える大講演になりました。すっごく面白かったです。

講演内容は「岩石信仰の歴史を、旧石器時代から現代まで」。壮大です!

吉川さんは岩石信仰を「岩石を用いた信仰全般」すなわち「岩石そのものを信仰すること + 岩石を利用して別の何かを信仰すること」と定義し、それを四象限に分けて通観しました。「人為 <-> 自然」「不動 <-> 可動」の二つの軸で分けた四象限です。内容が濃密すぎて、とてもじゃないですが内容をまとめられないので、印象的な部分のみ記します。

旧石器時代、石の加工がなされていたわけですが、それが信仰の表現としても行われたかどうかはわかりません。しかし「岩戸遺跡のこけし形岩偶」(B.C.25,000前後)に象徴されるように、明らかに「自然のままの岩石ではダメで、そこに人の手を加えたい」という心理があったことは間違いありません。

確実に岩石が信仰と結びついている最古の事例は、縄文時代の墓を伴う「配石遺構・集積遺構」です。少なくとも石が祭祀の道具に使われているわけです。そして人為的に石を並べているということもポイント。自然のままの場所で自然の石を信仰する、というのも先史時代からあったかもしれませんが、これは証拠がないのでわからない。今わかるのは、人為的に手が加えられたタイプの岩石信仰のみです。

自然石信仰の最古の事例と考えられるのは、「女夫(めおと)石遺跡(山梨県)」だそうです。ここでは、巨大な石に接するようにミニチュア土器が見つかりました。ミニチュア=実用性はない、ですからそこに何らかの象徴的な意味を込めていたことが確実です。

弥生時代の「楯築墳丘墓」は、古墳時代の古墳の原型となったものだそうですが、墳丘上に大きな立石、列石があるのが目を引きます。古墳を作ってるわけですからそれで十分迫力があるのに、そこにさらに巨大な石を配置したということになります。とんでもない労力。石に大きな意味を見出していたのは確実でしょう。

ちょっと時代が飛んで奈良時代には、最古の磨崖仏とされる「狛坂寺跡磨崖仏(滋賀県)」が登場。「自然の石をそのまま祀りたいというのとは違う心の動き」が現れました。石を一種のキャンバスと捉えたのか、それとも元から神聖視されていた石を加工したのか、ハッキリとしたことはわかりません。

奈良時代には「岩坐(いわくら)・石神・み像(かた)」といった、岩石信仰の概念群が『風土記』などに登場します。道教・仏教などの影響を受けながら、「岩石を神聖視するための枠組み」が出来ていきます。しかしこの枠組みがクセモノでした。現代の学者がそれっぽい石を「これはイワクラだ!」と断定することによって、古代人の信仰を捏造するようなことが行われていくからです。

なお平安時代に編纂された『延喜式神名帳』では、「いわくら」が名前に含まれる神社がたくさん掲載されています。その過半数が北陸であるのはどういう意味があるのでしょうか。謎です。

また時代が下ると、「坐禅石・足跡石・腰掛石」のように、ことさら特別ではないがそれなりに目立つ石に、それっぽい伝説を付加して名前を付ける事例が増えるのが注目されます。「頼朝が腰掛けた石」とかその類です。祭祀や信仰までには至らないですが、石に物語性が与えられるのが面白いです。

北部九州を中心に日本各地に残る「神籠石(こうごいし)」も似ています。それらは、民話・伝説などが付与されていますが形状は一定せず、信仰・祭祀があったかどうかもまちまちだそう。「神籠石」もあやふやな概念で、かえってそのあやふやさが面白い。

江戸時代になると岩石信仰に関係する遺物は厖大となります。「山の神・力石・庚申・要石・一字一石経・道祖神・陰陽石・石取祭」など全国各地に石を利用した祭祀が残ります。講演では言及がありませんでしたが、普通の人が「墓石」を立てるようになるのも江戸時代です。

私は講演を聞いて、「石に対する態度は、江戸時代あたりがターニングポイント」と感じました。江戸時代以前は石に対する畏怖が感じられるのに、江戸時代では石は単なる「石材」になっている感じです。このように感じたのは、吉川さんがしばしば「石に対して申し訳ない」といったことを口走っていたからでもあります。吉川さん自身は、石を神聖視しないように自らに課し、あくまでアカデミックで冷静な目で見ようとしている……と言っていましたが、実際には石に対する猛烈なパッションを感じました。この態度、江戸時代以降の人が失ったものでは……!?

たびたび「石がムキムキしている」と言っていたのも印象に残った点。石がゴツゴツと躍動的に隆起する様を表す擬態語のようです(笑)。この言葉自体が、石に対して内在的な力を仄めかすもののように思えます。吉川さん、アカデミックを装いつつも、めちゃめちゃ石に対して敬意を持ってます。

要するに吉川さんは、私たちと比べて石に対する敬意が桁違い。でもこれ、私たちだけのことではなく、江戸時代の人がすでに石に対する敬意ってあんまりないような気がします。一言で言えば、江戸時代には「石が身近」。個人の力で加工できるようになったことが大きな態度の変化をもたらしたのでしょうか。だから吉川さんの石に対する態度は、中世以前のそれに近いのかもしれない、と思いました。根拠は……ないですけどね(笑)

明治時代には伏見稲荷に個人で塚を作るブームがあったそうですが、これなんかも石に神聖性を感じていた…という気はしません。「塚」を作る材料として石を使ったと考えるのが普通でしょう。

講演では言及されませんでしたが、明治時代以降、招魂碑・記念碑・顕彰碑などが大きな自然石のものを中心に厖大に建立されます。特に鹿児島では日露戦争の戦没者碑が大きく立派なのが各市町村で作られていますが、こうしたものでは石は単なる石材に違いありません。しかし、ではなぜ自然石(四角く加工していない等)なのか、大きな石を用いずにはいられなかった心の動きは何なのか。近代人の心の動きもよくわかりません。

そして現代でも、岩石信仰は次々と生みだされています。工事の際に出てきた大きな石がしめ縄を張られて祀られた事例は興味深いです(茅野駅前の巨石(長野県))。こうした自然発生的なものだけでなく、いわゆる「創られた伝統」として、「ここは古代から信仰されていた場所に違いない」式に新たな石の聖地が生みだされるケースもたくさんあります。それこそ、先述したように研究者がそれに荷担した場合も多いのです。

吉川さんは、そうしたことを自らが行わないよう、極めてストイックな態度で石を見て、決して断定しないように慎重に語っていたのが印象的でした。我々のように面白半分で磨崖仏を見ている人間にはありえない態度です(笑)

そして吉川さんの講演の後、川田さんによる新発見磨崖仏の説明がありました。今回は「磨崖田の神」をフィーチャー。東川隆太郎さんから教えてもらったそうです。田の神=タノカンサアは、必ず石でつくられるのが不思議です。木像タノカンサアがあったら教えてください。それから絵もないですよね。例えば仏像だったら、石像も木像も絵もあるわけですが、タノカンサアは石でしか表現されない。なぜタンカンサアは石しかないのか。謎です。

こうして今回の「鹿児島磨崖仏巡礼」は終了しました。定員いっぱいのお申し込みがあり(しかも結構早く埋まりました)、当日は桜島がすっかり冠雪するという厳寒の中、熱心に聞いて下さった聴衆の皆さんにも感謝です。ありがとうございました!

例によって次回またやるかどうかは決まっていませんが、我々にとっても刺激をいただける機会になっていますので、また一年後くらいに開催したいと思っています。ではまた!!

【宣伝】
吉川さんの著書『岩石を信仰していた日本人—石神・磐座・磐境・奇岩・巨石と呼ばれるものの研究—』
日本の岩石信仰をアカデミックに見直した名著です。どうぞお買い上げください(笑)

「鹿児島磨崖仏巡礼vol.5 —岩石信仰と磨崖仏—」を開催します!

「鹿児島の磨崖仏を全部網羅したガイドブックを作ろう!」というところから始まったプロジェクト「鹿児島磨崖仏巡礼」。前回「総まとめ」を行い一区切りとしましたが、この度、日本の岩石信仰研究の第一人者、吉川宗明さんをお呼びして、新たな視点から鹿児島の磨崖仏を見直してみたいと思います。磨崖仏の世界をともに楽しみましょう!

鹿児島磨崖仏巡礼vol.5 —岩石信仰と磨崖仏—

日時 2022年12月18日(日)14:00〜16:30
会場 レトロフトMuseo (〒892-0821 鹿児島市名山町2-1 レトロフト千歳ビル2F)
<鹿児島市電>朝日通り電停より徒歩2分
※会場には駐車場がありません。

要申込:定員15名
参加料:1500円
申込方法:↓こちらのフォームより申し込み下さい。定員に達し次第受付を終了します。
https://forms.gle/FxmVbQMqEjahFQy89

<特別基調講演> 吉川宗明氏
「岩石信仰の歴史を、旧石器時代から現代まで」
(約1時間)

岩をまつり、石でまつったという岩石信仰。いつ始まったのかもわかりませんが、今も見かける現象です。
時代別に、その時代を特徴づける遺跡や場所、文献を一気に紹介します。岩石信仰の世界の輪郭を知るだけでなく、数々の論点について皆さんと一緒に考える時間にしたいです。

吉川 宗明(よしかわ むねあき)
1983年、三重県四日市市生まれ。2005年、立命館大学文学部日本史学専攻考古学コース卒業。在野研究者。現在、日本宗教民俗学会会員、文化地質研究会会員。
主著『岩石を信仰していた日本人』(2011年)
ホームページ「石神・磐座・磐境・奇岩・巨石と呼ばれるものの研究」https://www.megalithmury.com/

「鹿児島磨崖仏巡礼」では、2020年からこれまでに4回の報告会を行い、磨崖仏を読み解くための基礎知識となる講演とともに、県内の磨崖仏を紹介してきました。
また現在確認されている県内の61の磨崖仏をマップにまとめ、特にその中でも注目の10の磨崖仏を紹介したパンフレット「鹿児島の磨崖仏」を2022年2月に製作し、一部で配布しました。
しかしこうしてまとめてみても、なぜ人々は磨崖仏を製作したのか、磨崖仏に何を託したのか謎は深まるばかりです。吉川宗明さんのお話で、その謎を解く糸口が見つかるのではないかと私たちも期待しています。
当日は、吉川さんによる特別基調講演の後、初めて参加する方にもわかりやすいように鹿児島の磨崖仏について概括的に紹介しつつ、磨崖仏を巡って3人で楽しくフリートークをしたいと思います。なお、当日は当該パンフレットを配布いたします。

↓チラシです。

「鹿児島の磨崖仏」パンフ完成しました!

2021年3月13日(日)、「鹿児島磨崖仏巡礼vol.4 鹿児島磨崖仏総まとめ」を鹿児島市名山町レトロフトにて開催いたしました。新型コロナウイルスがまだまだ収まっていない状況であるため、定員を15名に限定しての開催。すぐに満員になってしまいました。

今回、参加者の皆さんに配布したのが、「鹿児島の磨崖仏」というパンフレットです。我々がこれまでの磨崖仏巡りの成果に基づいてまとめたもの。今までのところ判明している61の鹿児島の磨崖仏をリスト+地図(大体の位置)で総覧するものです。

自慢じゃないですが、このような形で鹿児島の磨崖仏がまとめられたのは、史上初めてのことではないかと思います。イベントでは、この資料に沿って、特に注目して欲しい鹿児島の磨崖仏10選についてその面白さを二人で存分に語り合いました。

どれもこれも面白いものばかりのため、予定の2時間を遙かに超過して2時間半くらいになってしまいました。その後予定があった方には申し訳ないことをしました。

なお、このパンフレットですが、「レトロフト」、「つばめ文庫(武岡本店、出水店)」、「books & cafe そらまど」で配布しております。

ちなみにどこかから予算が出たわけではなく完全に手弁当で作っているため、デザインが素人丸出しですが温かい目で見守って下さい…。

なお、「鹿児島磨崖仏巡礼」のイベントですが、一応今回で「一区切り」とします。これが最終回ということではないのですが、我々の目標はあくまでも「磨崖仏ガイドブック(書籍)の作成」であり、イベントの開催は副次的なものなので、しばらく次回の予定を定めません。

ですが、何か面白い磨崖仏の発見があった時や、「またイベントしたいな!」っていう時は開催したいと思います。聴衆を前にして磨崖仏について語るのは、我々としてもめちゃくちゃ楽しいですしね!

というわけで、磨崖仏の活動を一区切りにするのではなくて、磨崖仏の面白さを伝えていく活動は今後も取り組んでいきますので、引き続きよろしくお願いいたします!