伊集院磨崖仏:阿弥陀来迎

伊集院磨崖仏は、大きな岩に刻まれた阿弥陀三尊像です。

伊集院磨崖仏は、日置市伊集院町下谷口にあります。

伊集院磨崖仏の阿弥陀三尊像は、ちょっと変わっているように見えます。右の観音菩薩が正座していたり、左の勢至菩薩が片膝を立てていたり。

でも実は、この阿弥陀三尊像には元ネタがあります。それが、国宝「阿弥陀聖衆来迎図」(高野山 有志八幡講十八箇院蔵)です。これは平安後期(12世紀)の製作と考えられている絹布に書かれた絵画で、金色に輝く阿弥陀如来を中心に、飛雲に乗った聖衆たちが奏楽を伴いながら、今まさに往生者を迎えに来ている壮大な場面が描かれています。現在は高野山にありますが、元来は比叡山横川安楽谷に伝来したもので、室町時代には勅封(勅命によって封印すること)として宝庫に格納されていたほど比叡山で貴重視されていました。

※「阿弥陀聖衆来迎図」高野山霊宝館HPより

さて、「阿弥陀聖衆来迎図」の両脇侍、観音・勢至菩薩をよくみると、伊集院の磨崖仏がこれを参考にしたことが明確です。観音菩薩が正座して何かを持っている姿勢(たぶん本来は蓮台を持っていたのですが失われたのでしょう)、勢至菩薩が片膝を立てて合掌していること、そして天衣(てんね)が前腕にかかっている様子、耳の上に天衣をつけている様子までそっくりです。

※「阿弥陀聖衆来迎図」より勢至菩薩。京都国立博物館HPより

では、「阿弥陀聖衆来迎図」以外にはこのような像容を持つものはないのでしょうか。阿弥陀来迎図は平安時代中期から盛んに描かれるようになりますが、この頃からの代表的な作品とその観音・勢至菩薩の像容を見てみると、その多くが勢至・観音菩薩のどちらかが片膝を立て、片方は正座しているのです。ただし、いろいろなバリエーションがあるので、形態的特徴が完全に一致するのは著名なものでは「阿弥陀聖衆来迎図」くらいです。ちなみに片膝を立てているのは、跪いているのではなく、今まさに往生者を迎えるため立ち上がろうとする躍動的なポーズです。

しかし、鎌倉時代になると阿弥陀来迎図は立像が多くなってきます。往生者を迎えに立ち上がるのであれば、すでに立ち上がっている方が往生の瞬間を表現出来ると考えられたようです。その代表的かつ先駆的な作品が「早来迎」で知られる知恩院「阿弥陀二十五菩薩来迎図」(座っているのは観音菩薩のみ)です。また鎌倉時代の天才仏師快慶は阿弥陀立像を多く製作して一世を風靡し、以後阿弥陀像といえば立像が基本になっていきます。

さらに信仰の上では、「称名念仏」の力が大きく信じられるようになり、念仏をすれば浄土へゆける、念仏により浄土への往生が決定する、という思想が強くなってきます。平安時代に盛んに阿弥陀来迎図がつくられたのは、『観無量寿経』というお経に「臨終の際に阿弥陀如来が迎えに来るというイメージトレーニングをしておくことが往生のため重要」という趣旨のことが書いてあるためだったのですが、念仏により往生が決定するならそうしたイメージトレーニングは不要ですし、来迎自体も大きな意味を持たなくなります。

そんなわけで鎌倉時代中期以降、来迎図はさほど描かれなくなります。室町時代にも来迎図は製作されますが、かなり作例が限られてきます。翻って伊集院磨崖仏を改めて見てみると、阿弥陀如来が定印(両手を臍の上で合わせる)を結んでいること、観音・勢至菩薩の像容、天衣が前腕にかかっている様子など、全てが古い時代の阿弥陀来迎図の様式を示しています。平安時代後期から鎌倉初期のトレンドだと断言できます。

では伊集院磨崖仏は、そんなに古いものなのでしょうか? 確かに江戸時代よりは古そうなのですが、どんなに遡っても戦国・室町時代でしょう。ここで一つの疑問が生まれます。伊集院磨崖仏の作者は、どうして500年近くも前のトレンドによって仏像を刻んだのでしょうか? そもそも阿弥陀来迎は、イメージトレーニングや臨終の際に枕元に懸けて来迎を実感するために立体造形ではなく絵画として表現されることがほとんどでした。にも関わらず敢えて磨崖仏で阿弥陀来迎を表現したのはなぜなのでしょうか?

そして、阿弥陀三尊像の背後にある、謎の梵字(といわれていますけど、梵字のセオリーとは全く違う字なので梵字ですらないと思います)も全く意味不明です。

もしかしたら、この磨崖仏に深い意味はなく、偶然「阿弥陀聖衆来迎図」を目にした仏師が、それにいたく感動して岩に仏を刻んだだけなのかも知れません。その背景となる理屈や信仰などお構いなしに。しかし岩に刻む行為は、かなりの労力が必要です。やはり何らかの思い入れがあったと考える方が自然です。時代遅れの来迎像には、今となってはわからなくなってしまった、何かの目的があったのだと思います。

【参考文献】
文化庁、国立博物館/京都国立博物館/奈良国立博物館 監修『日本の美術2 No.273来迎図』
清水善三「来迎図の展開」
『天台宗開宗一二〇〇年記念 最澄と天台の国宝』(展覧会図録)
『弘法大師入唐一二〇〇年記念 空海と高野山』(展覧会図録)
水野 敬三郎 編纂『日本美術全集10 運慶と快慶』

栗下磨崖仏:逆修

阿弥陀如来の背後には、「谷口平兵衛が娘の菩提の“逆修”のために作った」という意味の言葉が刻まれています。

栗下磨崖仏は、薩摩川内市入来町浦之名にあります。

近世まで非常に大きな存在感がありながら、現代にはほぼ全く廃れてしまった供養法に「逆修(ぎゃくしゅ/ぎゃくしゅう)」があります。

逆修とは、生前に自分の死後の供養を行うことです。現代の感覚から言うと、供養というのは死後に意味があるものなのに、生前にそれを行うということに違和感があるかもしれません。ところが中世から近世(江戸時代)までの日本では、むしろ逆修という「生前供養」を行うことは一般的でした。

そもそも供養というものは、死後に極楽浄土へ往生することを願って行うものです。ではどうしたら往生できるのでしょうか? 昔の日本人は、作善(さぜん)行為を重ねることによって往生できると考えました。要するに「よいことをすれば往生できるはずだ」というのです。

具体的には作善とは、仏事を修すること(お坊さんを呼んでお経をあげるなど)、堂塔(寺院や仏塔)を建立すること、仏像を造立すること、梵鐘を鋳造すること、風呂を施すこと、罪人や非人に施しを与えること、動物を助けること(放生)、などがあります。これらは「風呂を施す」以外は、今の社会でもそれなりに宗教的な善行であると考えられるものです。今では「供養」と言えば仏塔の造立やお経をあげることと思われていますが、近世以前の仏教ではこのような多様な行為が作善と見なされていました。

そして、このような行為を行うことで往生を願うのであれば、死後に親族が代わりに行うよりも、自分自身が行った方がより尊いはずだ、というのはごく自然な考えです。死後に親族が供養を行うことを「追善」と言いますが、追善で得られる功徳は逆修の場合の7分の1しかないと考えられました。言葉を換えて言えば、逆修の効果は追善の7倍あるというのです。それを「七分全得」といいます。

こうした考えから、死後の仏事の全てを生前に済ませた人もいました。例えば甘露寺親長(かんろじ・ちかなが)という人は、自身の逆修供養を文明3年(1471)の3月から5月にかけて行いました。それは、初七日から四十九日を済ませ、1月後に1周忌と3周忌を行い、さらに2月後には三十三回忌まで行うというものだったのです。もちろん葬儀のみを生前に行う逆修供養もありました。

では逆修供養を行った人は死後には葬儀は行わなかったのでしょうか? 実は「逆修が済んでいるので葬儀は不要。年忌法要も不要」といった遺言を残している人はいますが、やはり親族が死亡して何の仏事もしないというのは落ち着きが悪かったのか、逆修供養を行っていても死後の仏事は何らか(しばしば通常通り)行うことが多かったようです。さらには、逆修を行うのも1度とは限りませんでした。作善行為は何度もやることで功徳が積み重なっていくからです。実際、藤原道長は逆修を2度行っています。

逆修の実例としては、各地で逆修供養塔(逆修塔)を数多く見ることができます。これはいわば生前に建てる墓石ですが、死後に遺骨などが納められたわけではありません。これは墓標ではなく、あくまでも作善行為として造立されたものだからです。死後には墓石を別に建てることもあったようです。

ちなみに、親が子どもの仏事を修するなど、年長者が死んだ若年者の菩提を弔うことも逆縁というようです。栗下磨崖仏の場合はどちらの意味なのでしょうか。

【参考文献】
水藤 真『中世の葬送・墓制—石塔を造立すること—』
伊藤 良久「中世日本禅宗の逆修とその思想背景」 山口 奇世美「平安時代の逆修の変遷」

倉野磨崖仏:オーンク

右端の丸の中にあるのがオーンク

倉野磨崖仏の中心は、世界にもここしかないと言われる「オーンク」という梵字です。これは一体何なのでしょうか? ちょっと専門的になりますが、この梵字を理解することは抽象美術・抽象思考としての梵字を考える上でも参考になりますから少しお付き合いください。

倉野磨崖仏の説明版では、これは「金剛界・胎蔵界両部不二の大日如来を表す文字として、密教の最高尊を表現しようとして工夫創作された」とされています。しかしこれだけで内容が理解できる人はほとんどいないので順を追って説明します。

まず、大日如来を表す種子は、金剛界・胎蔵界で異なり、それぞれ「バン(鑁)」「ア(阿)」です(金剛界・胎蔵界の説明は割愛します)。要は、大日如来を表す梵字は「バン」「ア」の二種類あるということです。

さらに、「バン」や「ア」は、より至高の存在であることを示すために変形され、「バーンク」「アーンク」と表現されることもあります。梵字は母音と子音を表す記号を組み合わせて作字されるのですが、具体的にどのような変形が施されているのかを、胎蔵界大日如来を表す「アーンク」を例に解説しましょう。

アーンクの解説

この梵字の一番上にある点は、「空点」あるいは「菩提点」といい、子音「ン(ṃ)」を追加する意味があります。ですから、「ア」に「空点」が追加されれば「アン(aṃ)」と発音する梵字になります。

次に「空点」の下にある半月形の記号は、「荘厳点(しょうごんてん)」といい、これは発音を変えない飾りです(なお、仏教では「荘厳」は美しく飾るという意味です)。

次に右肩にある半月形の記号は「修行点」といい、これは母音を長音化するという記号です。ですから、「ア」に「空点」「修行点」が追加されれば「アーン(āṃ)」と発音する梵字になります。

そして右側にある二つの点は「涅槃点」といい、子音「ク(ḥ)」(本来の発音は「ハ」に近いが、日本悉曇学では伝承的に「ク」と読んできた)を追加するという記号です。ですから、「ア」に「空点」「修行点」「涅槃点」が追加されれば「アーンク(āṃḥ)」と発音する梵字になります。

なお、「アーンク」の文字においては、「ア」に比べて下の部分がヒョロっと上を向いていますが、これは単なる装飾的な書き方(異体字)であって、発音は変えません。

このように「ア」に「空点」「修行点」「涅槃点」と「荘厳点」を加えることで、華麗な梵字「アーンク」が作字されます。なお、全ての梵字には理念的に「命点」と呼ばれる点があると考えられていることから、「アーンク」は「命点」「空点」「修行点」「涅槃点」「荘厳点」の五点を持っていることになり、「五点具足の大日如来」と呼ばれています。

なおこれまでの説明でも分かる通り、「アーンク」という音節に意味があるのではなく、「ア」に様々な点を加えて華麗に表現したのが「アーンク」という種子なのです。

金剛界大日如来を表す「バン」→「バーンク」の場合も同様であることは直ちに理解できると思います。

梵字の五点具足化

さて、倉野磨崖仏の「オーンク」は、「オン(唵)」という梵字に対してこのような変形を施すことで創作された文字なのです。それでは「オン」とは何を表す梵字なのでしょうか?

「オン」(本来の発音は「オーン」に近い)は、インド最古の古典『ヴェーダ』に由来し、「かくあるべし」の意味だったとされ、神を讃える間投詞だったようです。「オン」は宗教儀式や呪唱の始めに唱えられたため、次第に神聖視されるようになり、インドの古代哲学ウパニシャッドの頃になると、聖句として「オン」には様々な意味が付与されました。例えば、森羅万象全て、究極的存在、ブラフマン(宇宙の最高原理)、アートマン(個の根源)といったもので、これを唱えると梵我一如の境地に到達すると説かれています。

こうした聖句としての「オン」は仏教(特に密教)にも受け継がれ、真言の最初に唱える定型句となりました。さらにはウパニシャッドの考えが仏教的に再解釈され、「オン」は大日如来の真身、一切の陀羅尼の母、一切の如来と法門を生ずる根源であるとされました。「オン」は始原的な最高の存在とされたのです。

とはいえ、聖句としての「オン」は真言に残されたものの、密教全体を概観してみると決してウパニシャッドの頃のように重視されたとはいえません。密教では宇宙の最高原理は毘盧遮那仏(大日如来)であるとし、ブラフマンのような抽象的な存在というよりは、偉大な仏としての具象的な姿によって表現されました。密教は思弁的というより、儀式や数々の仏具や呪(真言・陀羅尼)を使って行う即物的な性格が強かったことを考えると、聖句「オン」は密教徒が崇めるにはあまりにも抽象的過ぎたのかもしれません。

しかし倉野磨崖仏の製作者は、超越的な最高原理を表すため、敢えてこの「オン」を使い、さらに至尊表現として「オーンク」字を創作したと考えられます。説明版では「金剛界・胎蔵界両部不二の大日如来」としていますが、それよりももっと抽象的な宇宙の最高原理を表現していると考えてもあながち間違いではないでしょう。

鎌倉時代の鹿児島で、中央でもほとんど閑却されていた「オン」によって宇宙の最高原理といった抽象的かつ高遠なものを表現しえたことは注目してよいことです。しかも既存の梵字をそのまま写すのではなく、至尊の存在として独自の梵字を生みだしたことは高度な梵字理解を窺わせます。

しかし、そうした高い評価の裏側で、やはり日本悉曇学の限界も指摘しなければなりません。「ア」や「バン」は元来がそれだけでは意味のない梵字で、それを日本人が恣意的に大日如来に対応させ種子にしたものですから、それを「アーンク」「バーンク」と変形しても一種の記号ですから何の問題もありません。ところが「オン」はそれ自体が不変であるべき聖句でした。であったにも関わらず、それを勝手に「オーンク」に改変してしまったことは、「オン」の聖性を無意味化する行為であったと考えられるのです。

日本語にも「言霊」という考え方がありますが、例えば「神」の枕詞「ちはやぶる」を、より立派にするためということで「ちはやーぶるく」などと改変したらどうなるでしょうか? 「ちはやぶる」は明確に語義を持った言葉ではないにしろ、せっかくの枕詞が台無しになったと感じるのが普通の感覚でしょう。「オン」を「オーンク」に改変したのは、そういう行為でした。しかし当時の人は、悉曇学を語学ではなく、単なる記号の組み合わせ術としか認識していなかったのでそれがわからなかったのです。

【参考文献】
田久保周譽、金山正好(補筆)『梵字悉曇』
川勝政太朗『梵字講話』 斎藤彦松「日本に於ける唵(OM)字信仰の研究」

倉野磨崖仏:梵字

右端にあるのが「オーンク」

倉野磨崖仏は鹿児島県薩摩川内市樋脇町倉野字木下にあります。

梵字とは、古代インドで使われていた文字です。正確にはサンスクリット語(梵語)を表記するためのブラーフミー系文字の総称ですが、特にシッダマートリカーと呼ばれる文字を指すことが多いです。

その場合、梵字はシッダマートリカー(シッダン:完成された マートリカー:字母)の音写で「悉曇(しったん)文字」とも呼ばれます。

梵字は子音と母音を表す記号の組み合わせで出来ており、一字で一つのシラブル(音節)を表します。サンスクリット語では梵字一字は意味のある単語ではありませんが、ある種の梵字は特定の仏に対応させられており、そのような梵字を「種子(しゅじ)」または「種字」と言います(ただし種子と仏との対応は一対一ではありません)。

例えば、大日如来(胎蔵界)を表す「ア」、阿弥陀如来や千手観音を表す「キリーク」などは磨崖仏でもよく見られます。鹿児島の磨崖仏では、仏の姿を具象的に表現するよりも、種子の梵字を刻んだものの方が多いくらいでしょう。梵字は、種子——諸尊を表す記号として広く親しまれてきました。

しかし言うまでもなく、梵字は本来は梵語を表記するアルファベットのようなものであり、単体ではなく単語・文章を構成して始めて意味を持ちます。日本に伝えられた仏典はほとんど全て漢訳されていましたから梵語によって理解する必要はありませんでしたが、真言とか陀羅尼(ダラニ)といったものは梵語の文章でした。日本人にとって梵語といえば、まずは真言・陀羅尼によって接するものでした。

というのは、真言・陀羅尼は、一種の聖なる呪文であるため敢えて漢訳されなかったのです。これらは梵語の音写(漢字で読み方を表示すること)または梵字によって日本に伝来しました。その性質から正確に発音しなければ効果が薄いと考えられ、これを誦呪(じゅじゅ)し理解するための悉曇学が発達したのでした。日本における悉曇学は、音韻(発音)を中心とした語学だったと言えるでしょう。

ところがこの語学は、語学としてはいびつな発達をしました。なぜなら、日本には梵語を正確に理解する人間も、正確に発音できる人間も存在せず、もっぱら漢訳を通じて梵語を理解・発音し、しかもそれが奥義として師匠から秘密裏に伝授されていくものだったため批判を受け訂正していく機会もなかったからです。そして何よりも、梵語を実用する機会は皆無だったということが日本悉曇学の悲劇でした。

現代においても、例えば英語を中国語を通じて学習し、しかもネイティブスピーカーが存在しない状況で、英語をコミュニケーションに使う機会もなければ、そうして学んだ英語は本来の英語とはかけ離れたものになることは容易に想像がつきます。それと同様に、日本悉曇学で相承された梵語・梵字は本来のものとはかなり異なっていました。

例として金剛界大日如来の真言を挙げてみましょう。

唵 嚩日囉 駄覩 鑁(オン バザラ ダト バン)

日本では梵語はこのように、まずは漢字の音写によって認知されていました。梵字と漢字の音写対応関係は不空金剛という中国密教の大家によって確立されていましたから、中国ではこの表記で正確な発音・理解ができたのかもしれませんが、中国語の正確な発音すらままならなかった日本では、こうした韜晦な表記が梵語の真の理解を妨げていました。

中国では梵語は仏典の聖なる言葉という性格もありましたが、梵語の文献を翻訳するという実用上の意味も大きかったので、日本で起こったような逸脱や誤解はあまり起こりませんでした。

また、文字も変化していくものですから、インドでは比較的短期間で悉曇文字は使われなくなり、そこから変化したナーガリー文字が使われるようになりました。そこで中国では北宋時代にそれに対応し梵語仏典にはナーガリー文字を使用するようになりました。さらに明代にはチベットから伝来されたランツァ文字が中国の梵字の標準字形となりました。

ところが日本では梵字は翻訳のような実用上の意味がなく、仏典の神聖な文字という象徴的な意味しかなかったので、中国やインドで悉曇文字が使われなくなってもそれを依然として墨守し、伝承し続けました。本場インドはおろか中国でも役目を終えた古代文字である悉曇文字を、千年以上にもわたって同じ形で使い続け、神聖視し続けたことは良くも悪くも他国には見られない島国らしい現象です。

しかも先述のように、それは残念ながら梵字の正確な理解に基づくものではありませんでした。日本の悉曇学を批判的に検証した田久保周譽は「梵字学が儀式的相承の語学に変形してからは、次第に独断と主観的推測が累積するようになった」とし、「日本の学僧の間では、梵字悉曇の本質は十中八九までは理解されていなかった」と総括しています。

また日本では梵字を神聖なものと見なしていながら、遂に江戸時代までの学僧にはインドまで行って仏典の原典を求める人間も出ませんでした。こうして日本では、梵字は文字であるよりもむしろ神聖な記号、神秘的ヴェールに包まれた抽象的な存在となっていきました。

倉野磨崖仏に刻まれた「オーンク」の文字は、まさにそうした日本的梵字の在り方を示す極端な実例と言えるでしょう。この「オーンク」は世界でもここにしかない文字だ、と言われています。梵字はシラブル単位で作字されるため、非常にバリエーションが多く、複数個の子音と母音を組み合わせると理屈的には数千ほども考えられるそうです。しかし現実の単語で使われるのはその中のごく一部であり、ましてや「世界にここにしかない文字」など文字としては邪道の存在であることは明らかです。

とはいえ、日本的梵字の在り方を別の面から考えてみると、日本の仏教思想への意義も大きかったのです。それは、元来日本の思想には希薄だった抽象的な思惟をもたらしたということです。梵字(種子)で表した仏は、悟りを開いた立派な人物であるというイメージよりも、「真理」そのものを直接的に表す超越的な何かだと受け取られたことでしょう。

そもそも、精巧に作られた立派な仏像や、その仏像の深遠な思惟に耽る表情といったものは、仏教の教理を知らなくても、いや仏教徒でなくても拝みたくなるものです。少なくとも、技巧を凝らした仏像は、信仰の対象となるかどうかは別としてもそれだけで「ありがたさ」を伝えることができます。

ところが梵字はそういうものではありません。岩壁に刻まれた梵字は、仏を表す抽象的な表現であって、それを理解するためには知識が必要です。あたかも、現代の抽象美術の鑑賞に作品への知識が必要なのと同じように。過去の日本人は確かに梵字をほとんど誤解していたのですが、それゆえに理法の世界を梵字によって抽象表現するという境地をつくり出しました。早い話が、梵字は世界に先駆けた抽象美術となったのでした。

磨崖梵字は、非常に地味なものです。日本にも具象的に仏を表現した磨崖仏はたくさんありますし、東アジアには敦煌や雲崗のような大規模な磨崖寺院・磨崖仏、龍門やバーミヤンの大仏など、非常に精巧かつ大規模に建立された磨崖仏教遺物が数多くあります。それらに比べ、磨崖梵字は作りも簡単で見応えはあまりないのかもしれません。

しかしこれは、巨大な大仏などと違って、具象的な表現によって見るものを圧倒するのではなく、抽象的な表現によって見るもの自身がその内に仏や理法を感得するように仕向けられたものです。それは鑑賞に知識を要するという意味で、大仏などよりも高度な存在であるという評価も可能なのです。

【参考文献】
田久保周譽、金山正好(補筆)『梵字悉曇』
川勝政太朗『梵字講話』