栗下磨崖仏:逆修

阿弥陀如来の背後には、「谷口平兵衛が娘の菩提の“逆修”のために作った」という意味の言葉が刻まれています。

栗下磨崖仏は、薩摩川内市入来町浦之名にあります。

近世まで非常に大きな存在感がありながら、現代にはほぼ全く廃れてしまった供養法に「逆修(ぎゃくしゅ/ぎゃくしゅう)」があります。

逆修とは、生前に自分の死後の供養を行うことです。現代の感覚から言うと、供養というのは死後に意味があるものなのに、生前にそれを行うということに違和感があるかもしれません。ところが中世から近世(江戸時代)までの日本では、むしろ逆修という「生前供養」を行うことは一般的でした。

そもそも供養というものは、死後に極楽浄土へ往生することを願って行うものです。ではどうしたら往生できるのでしょうか? 昔の日本人は、作善(さぜん)行為を重ねることによって往生できると考えました。要するに「よいことをすれば往生できるはずだ」というのです。

具体的には作善とは、仏事を修すること(お坊さんを呼んでお経をあげるなど)、堂塔(寺院や仏塔)を建立すること、仏像を造立すること、梵鐘を鋳造すること、風呂を施すこと、罪人や非人に施しを与えること、動物を助けること(放生)、などがあります。これらは「風呂を施す」以外は、今の社会でもそれなりに宗教的な善行であると考えられるものです。今では「供養」と言えば仏塔の造立やお経をあげることと思われていますが、近世以前の仏教ではこのような多様な行為が作善と見なされていました。

そして、このような行為を行うことで往生を願うのであれば、死後に親族が代わりに行うよりも、自分自身が行った方がより尊いはずだ、というのはごく自然な考えです。死後に親族が供養を行うことを「追善」と言いますが、追善で得られる功徳は逆修の場合の7分の1しかないと考えられました。言葉を換えて言えば、逆修の効果は追善の7倍あるというのです。それを「七分全得」といいます。

こうした考えから、死後の仏事の全てを生前に済ませた人もいました。例えば甘露寺親長(かんろじ・ちかなが)という人は、自身の逆修供養を文明3年(1471)の3月から5月にかけて行いました。それは、初七日から四十九日を済ませ、1月後に1周忌と3周忌を行い、さらに2月後には三十三回忌まで行うというものだったのです。もちろん葬儀のみを生前に行う逆修供養もありました。

では逆修供養を行った人は死後には葬儀は行わなかったのでしょうか? 実は「逆修が済んでいるので葬儀は不要。年忌法要も不要」といった遺言を残している人はいますが、やはり親族が死亡して何の仏事もしないというのは落ち着きが悪かったのか、逆修供養を行っていても死後の仏事は何らか(しばしば通常通り)行うことが多かったようです。さらには、逆修を行うのも1度とは限りませんでした。作善行為は何度もやることで功徳が積み重なっていくからです。実際、藤原道長は逆修を2度行っています。

逆修の実例としては、各地で逆修供養塔(逆修塔)を数多く見ることができます。これはいわば生前に建てる墓石ですが、死後に遺骨などが納められたわけではありません。これは墓標ではなく、あくまでも作善行為として造立されたものだからです。死後には墓石を別に建てることもあったようです。

ちなみに、親が子どもの仏事を修するなど、年長者が死んだ若年者の菩提を弔うことも逆縁というようです。栗下磨崖仏の場合はどちらの意味なのでしょうか。

【参考文献】
水藤 真『中世の葬送・墓制—石塔を造立すること—』
伊藤 良久「中世日本禅宗の逆修とその思想背景」 山口 奇世美「平安時代の逆修の変遷」

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