菅原神社磨崖仏:神仏習合

菅原神社磨崖仏全景

菅原神社磨崖仏は、霧島市隼人町松永にあります。

菅原神社磨崖仏説明版

江戸時代までは、人々は神と仏をあまり区別して考えていませんでした。神社のご神体が仏像であったり、たくさんの神仏に同時に願いを託したりするのは普通のことでした。このように神道と仏教が融合していた現象を「神仏習合」と言っています。

「菅原神社摩崖仏」は、「神仏習合」を表す具体例と言えます。これらの摩崖仏を製作したのは、菅原神社の神官たちでした。神官たちは、まさに自分たちが祭っている天神に祈るのではなく、仏像に祈る方が自分たちの願いが叶えられると思ったのでしょう。ではなぜ、彼らはそのように考えたのでしょうか。

実は、庶民の間では神仏はほとんど同じようなものとして認識されていたのですが、理論的には全く別の存在でした。「神仏習合」といっても、本当の意味で神道と仏教が「習合」(別々の教義や神々が同一視され、一体のものとして扱われること。「シンクレティズム」とも言う)していたのではありません。

宗教における習合現象は、世界各地に見られます。そもそも仏教も、ヒンドゥー教の諸神をその中に取り込んで、帝釈天や四天王といったような存在をその世界観の中に包摂しています。例えば帝釈天は、バラモン教・ヒンドゥー教のインドラにあたります。また、大乗仏教自体が、(歴史的実在の人物としての)ブッダの教えと在来宗教の折衷によって生まれた仏教であるといって差し支えないでしょう。

しかし日本の「神仏習合」では、神と仏に対してこのような包摂や統合、折衷は行われませんでした。ではどのように神仏は共存していたのかというと、仏教伝来から暫くの間は「神は人間と同じように苦悩しており、そのために仏による救済を求めている」という考え(神身離脱思想)が広まりました。こうして一つの世界観の中に神仏を位置づけようとしたのです。ところが10世紀頃になると「日本の神々は、実はインドからやってきた仏たちが姿を変えて降り立った存在なのだ」という「本地垂迹説」という考え方が広まります。例えば、天照大神の本地(本体)は大日如来、八幡神は阿弥陀如来、大国主神は大黒天、といったように、神と仏の関係が様々に案出されていきました。

「本地垂迹説」によって、日本の神の本質は仏だということになって神道と仏教が接続されたのです。しかし、これは仏教がヒンドゥー教の神々を取り込んだような意味で「習合」ではありません。あくまで、神の世界と仏の世界を別個に考え、それを裏側で理念的に繋いだのが「本地垂迹説」でした。これはむしろ、神仏を統合するというよりも、神の世界と仏の世界を併存させるという性格の方が強かったのです。仏教と民間信仰について研究した堀一郎も、日本の「神仏習合」においては「シンクレティズムとよべるほどの体系化は、ほとんど進行しなかった」と述べています。

確かに日本では、歴史のほとんどの期間において、神道と仏教は互いに争うことなく平和的に共存していました。しかしそれは、神道と仏教が融合していたのではなくて、むしろうまく棲み分けていた、といった方が当たっているでしょう。どのように棲み分けていたのかというと、最もわかりやすいのは死後の世界の扱いです。

近世までの神社神道では、死後の世界のことはほとんど全く扱いませんでした。死んだらどうなるのか、魂はどこへ行くのか、といったことには、神道はノータッチだったのです。死後の世界のことは完全に仏教の領域でした。神官の葬式も仏教式で行われました。もちろん死後の安穏を願う場合も、仏様に対して祈られました。

逆に、身近で卑近な願いについては神様へ願うことが一般的でした。商売繁盛、病気平癒といったような願いです。こういう現世利益的な願いを託すには、仏の世界というのは遠すぎました。例えば阿弥陀如来の極楽浄土は十万億の仏土の彼方にあると考えられていましたが、こんなに遠くにあっては、病気平癒のような願いは聞き入られそうにもありません。

菅原神社磨崖仏 「天神御本地」十一面観音

「菅原神社摩崖仏」に菅原神社の神官たちが仏像を刻んだ理由も、その願いが彼岸的(あの世的)なものだったからにほかなりません。たくさんの摩崖仏がありますから、いろいろな願いが託されていたのでしょうが、それは天神様には叶えられない、死後の世界のことが中心だったでしょう。とはいえ、本来は天神様の御利益を主張していたはずの神官たちですから、たくさんの仏像を刻むことに少しバツの悪い思いがあったのかもしれません。そこに天神の本地「十一面観音」を刻んだのは、彼らも神と仏の世界を接続する義理を感じていたからのように思われます。

【参考文献】
逵 日出典『神仏習合』
佐藤 弘夫『アマテラスの変貌—中世神仏交渉史の視座』
高取 正男『神道の成立』

★告知★12月5日、報告会やります!
 ↓ 
鹿児島磨崖仏巡礼vol.2 
日時 2020年12月5日(土)17:00〜19:00 
会場 レトロフトMuseo (〒892-0821 鹿児島市名山町2-1 レトロフト千歳ビル2F) 
<鹿児島市電>朝日通り電停より徒歩2分 
※会場には駐車場がありません。 
↓詳細はこちら 
http://nansatz.wp.xdomain.jp/archives/105 

要申込:定員25名 
参加料:1000円 
申込方法:↓こちらのフォームより申し込み下さい。定員に達し次第受付を終了します。
https://forms.gle/FxmVbQMqEjahFQy89

高田磨崖仏:デウス・オティオースス

高田磨崖仏 全景

高田磨崖仏は、南九州市高田にあります。(高田は「タカタ」と読む)

高田磨崖仏 大黒天

高田磨崖仏は、刻まれている内容が独特です。

観音菩薩、阿弥陀如来、薬師如来、毘沙門天、そして大黒天です。またこの他に、時代が異なる天照大神の立像もあります。

このラインナップはあまり脈絡がないように見えます。特に磨崖仏としては滅多に見られない大黒天の存在が謎です。

その謎を解くことはできませんが、たくさんの尊像が製作された背景を考えてみましょう。

日本の磨崖仏は、多くが密教の考え方に基づいてつくられました。密教の主尊は大日如来。別名「毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)」ともいい、奈良の大仏もこの仏です。大日如来は真理そのものが神格化されたもので、最高の存在として崇敬されました。

しかし密教では大日如来の他にも多種多様な仏を崇めました。曼荼羅というのは、そうした仏たち(仏、菩薩、明王、天など)の秩序や世界観を表現した図像ですが、大変たくさんの仏が大日如来を取り囲んでいます。密教では大日如来という最大にして最高の存在があったのに、なぜ同時にたくさんの仏も信仰されたのでしょうか。

それは、神仏の機能分化と関係があります。

人は神仏に様々な願いを託しました。戦勝、病気平癒、安産、除災招福、商売繁盛、極楽往生、呪詛といったものです。もちろん宇宙の真理そのものである大日如来にこうした願いをかけてもよかったのでしょうが、こうした現実の生活に即した願いには、それに適した神仏に願をかける方がより効果的だと考えられました。例えば病気平癒なら薬師如来、極楽往生なら阿弥陀如来といったようにです。特定の分野に専門化した仏の方が、確実に願いが聞き入れられると感じたのは自然なことです。

このようにして、人々の願いの数だけ仏が生みだされたと言っても大げさではありません。例えば「とげぬき地蔵」(東京都豊島区、高岩寺)、「眼の観音様」(京都府長岡京市、楊谷寺の柳谷観音)、「イボ取り地蔵」(全国各地)など、「ここの観音さまは特に○○に御利益がある」と、ある種の願いにさらに細分化していった場合も少なからずありました。大日如来にイボ取りをお願いしてもあまり聞き入れなさそうですから、やはりイボ取りは「イボ取り地蔵」に任せたいものです。

こうした次第でしたから、密教での最高の仏である大日如来には、庶民の卑近な願いが託された様子はありません。大日如来は密教では本来最も中心となる主尊であるにも関わらず、「真理そのもの」といった抽象的性格から、具体的な願いとは縁が遠くなり、人々の信仰から遠ざかったのです。

同様の現象は世界各地の宗教で生じています。世界を創造した至高神ではなく、そこから分掌された専門化した神々への信仰が中心となり、至高神に願うことはほとんどなくなる、という現象です。このように人々から閑却された至高神のことを、宗教学では「デウス・オティオースス(暇な神)」と言っています。大日如来は閑却まではされていませんが、「デウス・オティオースス」的な一面もあるようです。

それはさておき、高田磨崖仏を製作した人は様々な願いを抱え、それを同時に叶えようとしたのかもしれません。では大黒天に託された願いは何でしょうか? それは福神信仰かもしれませんし、食事の守護神として彫ったのかもしれません。また、高田磨崖仏の場合は明らかに違いますが、甲子待ち(きのえねまち)(※)の本尊として大黒天が彫られた場合もあります。

もしくは、いろいろな仏を刻んでおいてどのようなケースにも対応可能とした一種の曼荼羅だったのかもしれません。でもその場合、主尊の大日如来を彫るのをついつい閑却していたということになりますね。

※ 甲子待ち……甲子の日の夜に、子(ね)の刻まで夜更かしして大黒天を祭る行事。

★告知★12月5日、報告会やります!
↓
鹿児島磨崖仏巡礼vol.2
日時 2020年12月5日(土)17:00〜19:00
会場 レトロフトMuseo (〒892-0821 鹿児島市名山町2-1 レトロフト千歳ビル2F)
<鹿児島市電>朝日通り電停より徒歩2分
※会場には駐車場がありません。
↓詳細はこちら
http://nansatz.wp.xdomain.jp/archives/105

要申込:定員25名
参加料:1000円
申込方法:↓こちらのフォームより申し込み下さい。定員に達し次第受付を終了します。
https://forms.gle/FxmVbQMqEjahFQy89

鹿児島の磨崖仏巡り、中間報告会の第2回をやります!

「鹿児島の磨崖仏を全部網羅したガイドブックを作ろう!」というところから始まったプロジェクト「鹿児島磨崖仏巡礼」。6月に第1回の報告会を行ってご好評をいただきました。第2回となる今回も、これまでに巡った磨崖仏を紹介し、その面白さを自由に語ってみたいと思います。

鹿児島磨崖仏巡礼vol.2

日時 2020年12月5日(土)17:00〜19:00
会場 レトロフトMuseo (〒892-0821 鹿児島市名山町2-1 レトロフト千歳ビル2F)
<鹿児島市電>朝日通り電停より徒歩2分
※会場には駐車場がありません。

要申込:定員25名
参加料:1000円
申込方法:↓こちらのフォームより申し込み下さい。定員に達し次第受付を終了します。
https://forms.gle/FxmVbQMqEjahFQy89

≪磨崖仏≫とは?
岩壁や巨大な岩など、自然の石に刻んだ仏像(または仏教的造形物)のこと。鹿児島にはいくつの磨崖仏があるのか、その全貌は未だに不明。
「鹿児島磨崖仏巡礼」では、磨崖仏の紹介だけでなく、磨崖仏を通じて昔の人の信仰を紐解いていきたいと思っています。

<登壇者>
川田 達也
写真家。人知れず埋もれゆく鹿児島の古寺跡や風景に感銘を受け、その姿を撮り続けている。著書『鹿児島古寺巡礼』。ブログ「薩摩旧跡巡礼」。

窪 壮一朗
自称「百姓」。「南薩の田舎暮らし」代表。明治維新前後の宗教政策に関心。著書『鹿児島西本願寺の草創期』。ブログ「南薩日乗」。

下丁場摩崖仏:連刻板碑

下丁場摩崖仏の板碑部分

下丁場磨崖仏は、さつま町永野にあります。

元来、「碑」とは中国的・儒教的なもので、「塔(卒塔婆=ストゥーパ)」とはインド的・仏教的なものです。板碑とは、碑という儒教的形式によって仏塔を表現した、日本オリジナルの仏教造形物です。その基本形は、上部が山型になった細長く薄い岩で、上部に横2条の切り込み線、その下に「額」または「額部」とよばれる出っ張りがあって(ただし時代が下ると出っ張りはなくなる)、その下に梵字が刻まれているというものです。

五輪塔や宝篋印塔、層塔、宝塔といった他の仏塔と板碑が全く違うところは、他の仏塔がその形態そのものに仏教的な意味があるのに対し、板碑の場合はその形態ではなく、あくまでも刻まれる内容に意味があるという点です。例えば他の仏塔の場合、造塔自体に功徳があると見なされたので、造立者、制作年(紀年銘)、目的などが全く刻まれていない場合も多いのです。ところが板碑の場合は、文字を刻むことに意味があったため、造立者などが刻まれていることが多く、文字情報が豊富に残っています。

もちろん板碑も仏塔ですから、主目的は主尊安置・崇拝で、最も大事なのは仏像の種子(しゅじ)としての梵字です。しかし仏像そのものを刻んでもよさそうなものなのに、梵字があしらわれているのがほとんどなのを考えると、板碑の製作者たちは、どうも形態や図像ではなく、文字によって表現することにこだわりがあったように思います。いうなれば、板碑は中世のタイポグラフィー(文字によるデザインの)仏塔なのです。

板碑の中心は関東、特に埼玉県です。板碑は全国に5万基以上ありますが、埼玉県にはそのうちの2万基ほどが存在しています。埼玉県秩父地方では、緑泥片岩(いわゆる青石)が豊富に採取でき、この石は薄く加工することが容易なために板碑製作に適していました。鎌倉時代、関東に集められた御家人たちは板碑の造立を行い、また全国の所領に分散していくことで板碑文化を伝えていったと言われます。板碑は他の仏塔よりも形がシンプルで製作が容易だったために庶民にも手が届くものだったらしく、鎌倉・室町時代には全国で造立され、特に南北朝時代には造立のピークを迎えました。しかしその後造立は急減し、江戸時代になると製作されなくなります。中世とともに勃興し、そして消えていったのが板碑だといえるでしょう。

ところで板碑には、いくつかの板碑が連続している「連碑」があります。例えば二連の板碑は、夫婦(父母)の供養によく使われました。一つの石に二つ分の板碑を刻むほか、別々の石で一対の板碑とするのも連碑としています。鹿児島の湧水町(栗野)にある稲葉崎供養塔群には、このような対となった立派な板碑が何組か存在しています。また、数は少ないですが三連の板碑も、おそらくは三尊形式との類似から製作されました。

しかし、四連以上の板碑は、普通の板碑では製作されず、磨崖板碑としてしか伝わっていないようです。板碑を四連以上にするのは構造的な無理があったのでしょう。一方、岩壁というのは横に広がっているものなので、磨崖板碑の場合は連続させる方がデザイン的な落ち着きがあったからだと思います。

ここでは、四連以上の磨崖板碑を仮に「連刻板碑」と呼ぶことにしましょう。連刻板碑は全国的に非常に少ないと思われます。鹿児島には、「下丁場摩崖仏」の他、16連の「清水磨崖仏群(南九州市川辺町)」、7連の「七人山磨崖連碑(さつま町湯田)」の三ヶ所のみのようです。他の地域では大分県に磨崖板碑が多いようで、「道園線彫板碑(豊後高田市香々地)」、「梅の木磨崖仏(豊後高田市夷)」には共に21連の連刻板碑があります。また山形県には、5連の「永仁二年磨崖板碑 (南陽市赤湯)」があります(ただしこれはデザイン的には2連+3連になっていて、銘文が5連に渡って刻まれている)。

清水磨崖仏群 16連板碑

連刻板碑が何連で構成されるかが、どのような理論に基づいていたのか分かりません。大分の21連の磨崖多連碑はどうやら21という数に意味がありそうですが、他はないように思われます(スペースの都合上で連結数を決めているような感じ)。下丁場摩崖仏も、右側の7連、左側の8連という2つの磨崖多連碑がありますが、その梵字(種子)の構成も決まったセットというわけではないようです。

また、左側の8連の連刻板碑には、梵字の下に謎の文字が刻まれています。一見、梵字に似ていますが梵字ではなく、かといって模様というわけでもない、謎の存在です。これには何らかの意味が託されているのでしょう。それにしても、独特な何かを「文字」で表現したところが、いかにも中世のタイポグラフィー仏塔としての板碑っぽさといえるでしょう。

七人山磨崖連碑

【参考文献】
『中世の板碑文化』播磨 定男
『石塔の民俗』土井 卓治

久住阿弥陀山磨崖仏:方形内梵字

久住阿弥陀山磨崖仏(部分)

久住阿弥陀山磨崖仏は、薩摩川内市久住町にあります。

磨崖梵字は、普通、円の中に刻まれます。ところが久住阿弥陀山磨崖仏では、四角の中に刻まれた梵字が見られます。

なぜ普通は梵字が円の中に刻まれるのかというと、密教で行われる観想法が関係しています。「観想」というのは、イメージトレーニングのことです。何段階もの観想があり、順を追ってそれを行うことで悟りの境地へと導かれるのだそうですが、その基礎に「月輪観(がちりんかん)」があります。

ここでは詳細は述べませんが、「月輪観」とは心の中に美しい月輪=満月が存在することをイメージし、その清浄なありさまと一体不離となる観想法です。

そしてその月輪の中に梵字の「阿字」を思い浮かべるのが「阿字観(あじかん)」です。「阿字」は金剛界大日如来を表す種子(しゅじ)でもありますが、「阿字観」では万物の根本という意味で使われます。この「阿字観」を修することで、全宇宙(正確には「一切衆生」)と自己とが同体であると認識されるそうです(「阿字観」『興教大師覚鑁全集』による)。

こうした観想法があることから、梵字といえば月輪中に思い浮かべるものと相場が決まっていましたし、磨崖梵字として表現する場合も月輪=円の中に描くのが当然でした。

しかし、久住阿弥陀山磨崖仏の場合、四角の中に梵字が刻まれています。これは一体どのような信仰に基づくものなのでしょうか?

実はこのような「四角の中に刻まれた梵字(ここでは仮に「方形内梵字」と呼びましょう)」は少ないながら他にもあります。例えば久住阿弥陀山にほど近い倉野磨崖仏です。中心的な存在である「オーンク」は月輪内にありますが、両側の梵字は全て「方形内梵字」になっています。

【参考】倉野磨崖仏:梵字

近接した二つの磨崖仏の両方に「方形内梵字」があることは、おそらく偶然ではないのでしょう。この地域には、もしかしたら独特な信仰が存在したのかもしれません。

この地域を含む川内川流域一帯は、中世には「渋谷氏」という一族が治めていました。渋谷氏の本拠地は相模国渋谷庄(神奈川県綾瀬市、藤沢市、海老名市等にまたがる地域)で、東京の渋谷も、渋谷氏が領有したことから名付けられた地名です。渋谷氏は、薩摩半島北部を領有していた千葉常胤(つねたね)が宝治合戦(1247年)で討たれた結果、その領地を源頼朝から与えられます。

本拠地から遠く離れた薩摩国の所領は、渋谷氏の次男以下の五男に分割(東郷、祁答院、鶴田、入来院、高城)して与えられ、やがてその子孫達が所領地に移住しました。その移動は、一族はもちろん家臣を引き連れてのものであり、一家につき50家500人程度の規模が推測され、最小でも全体で2500人規模の移住が行われたと考えられています。こうして関東から大挙してやってきた渋谷一族が、北薩に一大勢力を持つことになりました。

渋谷氏が元来どのような信仰を携えて鹿児島にやってきたのかは、よくわかりません。しかし中世においては一族の結束を保つために信仰は重要でしたから、渋谷氏のアイデンティティと結びついた信仰があったのかもしれません。

なおこの磨崖仏が製作された南北朝期には、渋谷氏は禅宗を受容し菩提寺として龍游山寿昌寺を創建します(※)。久住阿弥陀山磨崖仏の願主と考えられる入来院重門は寿昌寺を篤く保護しました。寿昌寺は臨済宗聖一派の寺で、この宗派は臨済宗の中でも真言宗や天台宗をとりいれた禅密兼修の習合禅とでもいうべきものです。

ちなみに、川田達也さんによれば川内川流域には戒名を(石に彫らずに)墨書きした墓塔が多く、これも他の地域とは異なる特徴だそうです。渋谷氏との関係は不明ですが、方形内梵字といい、墨書き墓塔といい、川内川流域には少し変わった独特な仏教文化があったようです。

※寿昌寺の創建については、寺伝などにおいては入来院家初代定心によるものとされていますが、史料での初見が延文二年であるため実際には南北朝期の創建と考えられています(上田純一『九州中世禅宗史の研究』)。

【参考文献】
小島 摩文編『新薩摩学 中世薩摩の雄 渋谷氏』
上田 純一『九州中世禅宗史の研究』

鹿児島の磨崖仏巡り、中間報告会を開催します!

「鹿児島の磨崖仏を全部網羅したガイドブックを作ろう!」というところから始まったプロジェクト「鹿児島磨崖仏巡礼」。現在プロジェクトがスタートしてから約半年ということで、中間報告会のようなものを開催することにしました。これまでに巡った磨崖仏を紹介し、その面白さを自由に語ってみたいと思います。

鹿児島磨崖仏巡礼vol.1

日時 2020年6月13日(土)13:30〜15:30
会場 レトロフトMuseo (〒892-0821 鹿児島市名山町2-1 レトロフト千歳ビル2F)
<鹿児島市電>朝日通り電停より徒歩2分
※会場には駐車場がありません。

要申込:定員25名
参加料:1000円
申込方法:↓こちらのフォームより申し込み下さい。定員に達し次第受付を終了します。
https://forms.gle/FxmVbQMqEjahFQy89

≪磨崖仏≫とは?
岩壁や巨大な岩など、自然の石に刻んだ仏像(または仏教的造形物)のこと。鹿児島にはいくつの磨崖仏があるのか、その全貌は未だに不明。
「鹿児島磨崖仏巡礼」では、磨崖仏の紹介だけでなく、磨崖仏を通じて昔の人の信仰を紐解いていきたいと思っています。

<登壇者>
川田 達也
写真家。人知れず埋もれゆく鹿児島の古寺跡や風景に感銘を受け、その姿を撮り続けている。著書『鹿児島古寺巡礼』。ブログ「薩摩旧跡巡礼」。

窪 壮一朗
自称「百姓」。「南薩の田舎暮らし」代表。明治維新前後の宗教政策に関心。著書『鹿児島西本願寺の草創期』。ブログ「南薩日乗」。

小路磨崖仏:紅頗梨色宝冠阿弥陀

小路磨崖仏は、薩摩川内市東郷町斧渕小路にあります。

元来、密教は大日如来への現世利益的な信仰を枢軸とします。しかし平安期以降、全国的に阿弥陀信仰が盛んになり、現世利益よりも浄土への憧れが強くなると、密教でもそれを取り入れて大日如来と阿弥陀仏(阿弥陀如来)は同体であるという理論が生まれました。大日如来への信仰は阿弥陀仏へのそれと同じだというのです。この阿弥陀信仰化した密教を「密教浄土教」と言ったりします。

密教浄土教においては、大日如来と同体であるところの阿弥陀仏を信仰するわけですが、それを具象化したのが「紅頗梨色(ぐはりしき)阿弥陀像」です。普通の阿弥陀仏を拝んでも十分だったはずですが、大日如来と同体であることを形態的に示すためだったのでしょう、この紅頗梨色阿弥陀では通常の阿弥陀仏と若干違う点が見られます。

第1に、宝冠を戴いているという点です。通常の阿弥陀仏は、如来形をしているため、宝冠はつけていません。如来形というのは、悟った姿ということで、一切の装飾が排されています。一方、菩薩形というのは修行中の姿であり、宝冠や瓔珞(ようらく=アクセサリー)などきらびやかなものをまとっています。しかし大日如来は如来でありかつ菩薩であると考えられましたので、如来でありながら宝冠や瓔珞を身につけた姿で表現されました。紅頗梨色阿弥陀もこの考えを受け継ぎ、如来でありながら宝冠をつけて表現されています。

第2に、「定印(じょういん)」という印相を結んでいることです。印相とは、指で様々な形を作ることで、例えば阿弥陀仏には「来迎印」が多く見られます。これは右手を挙げて左手を下げ、共に掌を前に向けてそれぞれ親指と人差し指で輪を作るものです。一方「定印」は腹前に左手の上に右手を重ね、両手の親指の先をあわせて輪を作るもので、大日如来(胎蔵界)に典型的ですが、阿弥陀如来が定印をする場合には特に「法界定印」と呼んでいるようです(「妙観察智印(みょうかんさつちいん)」ともいう)。

第3に、紅頗梨色という名前のとおり、身体が紅く彩色されていることです。これは、金剛法界において五色を五方に配するときに西方蓮華部(阿弥陀が配されている場所)が赤に当たることからそうされると言います。ただし、体そのものが紅いのではなく、紅い光を放つとか身体自体は金色であるなどいろいろな説があります。

第4に、台座が特殊です。紅頗梨色阿弥陀は、横たえた五鈷金剛杵(ごここんごうしょ)の中央から独鈷金剛杵(どっここんごうしょ)の茎が出て、その上の蓮華に座しています。ただしこうなっていない作例もあり、例えば紅頗梨色阿弥陀像として有名な東京都板橋区の安養院(真言宗)では、孔雀の上に座しています。

さて、この独特な紅頗梨色阿弥陀がどう信仰されたのかというと、特に「紅頗梨秘法」というものがありました。これは阿弥陀如来を供養する(拝む)方法で、空海撰と伝わる「無量寿如来供養作法次第」では次のように説明されています。

面前に於いて、安楽世界を観ぜよ。瑠璃を地となし、功徳の乳海あり。その海中に於いて■[梵字:キリーク]字を観ぜよ。大光明を放つこと紅頗梨色の如し。遍く十方世界を照らす。その中の有情、この光に遇う者は、皆苦を離るること得ざるなし。この字輪は変じて独股と成る。首上に微妙の開敷せる紅蓮華ありて、横の五股の上に立つ。即ちその華変じて無量寿如来身となる。宝蓮華満月輪の上に在り。五智の宝冠を着して、定印に住す。身相は紅頗梨色なり。頂上より紅頗梨光を放つ。無量洹沙世界を照らし、皆悉く紅頗梨色なり。

『弘法大師全集』第2集より

これが「紅頗梨秘法」ですが、これは今の言葉で言えばイメージトレーニングということになります。

独鈷杵の上の紅蓮華(「無量寿如来供養作法次第」『弘法大師全集』第2集より)

まずは瑠璃を地とする「安楽世界」をイメージし、そこに梵字キリークを思い浮かべる。それが紅い光りを放って世界中を照らす様を思い描き、次にその字輪(月輪の上にある梵字)が独鈷杵(独股)となる。この独鈷杵の上に紅い蓮華が咲いて、横たえた五鈷杵(五股)の上に立つ。このようにイメージすると、その蓮華が無量寿如来(阿弥陀如来)になり、これが月輪上にある紅頗梨色如来だ、ということです。

この「紅頗梨秘法」を踏まえてみれば、小路磨崖仏はこれを修するために造営されたのではないかと考えられます。月輪中に彫られたキリーク字、紅頗梨色阿弥陀如来の様子などはそれを明確に示しているようです。ところが問題なのは、紅頗梨色阿弥陀が宝珠形の中に収まっているということです。これについては「紅頗梨秘法」ではなく、別の信仰を表しているのかも知れません。『無量寿如来供養作法次第』との関連から、私は「密観宝珠」に関連していると考えていますが真相は不明です。あるいは、教義上の意味はなくデザイン上の工夫という可能性もあります。

ちなみに、『無量寿如来供養作法次第』は空海撰とはなっていますが、鎌倉時代前期までにこれが流布された形跡がないことから、実際に「紅頗梨秘法」が成立したのは鎌倉時代で、像容の完成は鎌倉時代以降と考えられているそうです。

【参考文献】
鍵和田聖子「大日即弥陀思想の事相的研究」
苫米地誠一「紅頗梨色弥陀像をめぐって③—道場観を中心に—」