竜ヶ城一千梵字仏蹟:仏教の「数は力」思想

竜ヶ城一千梵字仏蹟(部分)

竜ヶ城一千梵字仏蹟は、姶良市蒲生町下久徳にあります。

竜ヶ城一千梵字仏蹟全景

竜ヶ城磨崖一千梵字仏蹟の基調となるのは、大量の梵字です。岩壁が過剰なまでの夥しい梵字で埋め尽くされ、一ヶ所にまとめられた梵字の数では日本一だそうです。

竜ヶ城磨崖一千梵字仏蹟を前にして誰しも思うのは、どうしてこのように大量の梵字を刻む必要があったのだろうか、ということでしょう。しかも陀羅尼のような文章を刻むならまだしも、同じ梵字の繰り返しがほとんどですから、大量の梵字を刻むより、少数の大きくて立派な文字を刻んだ方がよかったのではないかと感じてしまいます。

しかしこの背景には、おそらく仏教の「数は力」思想があるのです。

日本において仏教の「数は力」思想の先蹤となったのは、奈良時代の「百万塔陀羅尼」です。宝亀元年(770)、陀羅尼を印刷した紙を納めた100万基もの木製小塔が作られました。100万基とはとんでもない数ですが、実際に100万基作られたと考えられています。「百万塔陀羅尼」の場合、大量なだけでなくかなり手も込んでいます。陀羅尼の印刷は日本最古の印刷物ですし(世界的にもかなり古い)、木製小塔も轆轤(ろくろ)が使われた精巧なものです。当時の最先端技術を使ったものといえるでしょう。

平安時代になると、10世紀の中国における越王銭弘俶(せんこうしゅく)の八万四千造塔の信仰が伝わります。「銭弘俶八万四千塔」はアショーカ王が八万四千の仏塔を作った故事を踏まえて作られた銅製の小塔で、実際に8万4000基作られたかどうかは定かでありませんが、かなり大量に作られたのは間違いありません。その実物もいくつか日本に伝来しました。なお「銭弘俶八万四千塔」のデザインは宝篋印塔のモデルになったとされます。

銭弘俶八万四千塔(奈良国立博物館

そして、おそらくは「銭弘俶八万四千塔」の伝来がきっかけになって、平安時代末期には小塔の多数造立が皇室や公家、僧侶、上級の武士たちの間に広まり盛行します。末法思想の高まりによって、「救いのない世界の到来」を感じた人びとが藁をもすがる思いで大量の小塔造立を行ったのです。その主なものは次のようになります。

保安3年(1122)白河法皇法勝寺で五寸塔三十万基供養
天治元年(1124)白河法皇五寸塔十万基造立
保延6年(1140)僧 西念六万九千三百八十四本の卒塔婆造立供養
嘉応元年(1169)鳥羽法皇八万四千基の泥塔を仁和寺紫金台寺で供養
承安4年(1174)藤原基房泥塔一万基を造立し、妻の平産を祈願
養和元年(1181)後白河法皇八万四千塔を蓮華王院で供養
建久元年(1197)鎌倉幕府戦死者の冥福を祈り五寸塔八万四千基の造立供養
建仁3年(1203)源 頼家病気平癒のため泥塔八万四千基の造立供養
建保元年(1213)源 実朝八万四千基塔供養
建保4年(1216)後鳥羽上皇七条院の菩提を弔うため八万四千基塔を仁和寺で供養
※播磨定男『中世の板碑文化』p.31より一部抜粋して作成(表現を改変した箇所がある)。

これらの造立数は、額面通り受け取ってよいものでしょうか。「八万四千」は大量であることを表す数字で、常にちょうど84,000のことを表すのではない、とされていますが、上記の表で具体的な数字が挙げられていることを見ても、少なくともこの時代では律儀に決めた数を作ろうという意志はあったようです。

数万基も作ったという小塔はどのようなものだったのでしょうか。もちろん、手が込んだ小塔を作るのは不可能でした。作られたのは、「泥塔(どろとう/でいとう)」と呼ばれる、泥を塔型で型抜きして焼成してつくる、ほんの数センチの塔でした。

泥塔自体は、奈良時代からあり、底部に小紙を納入するための小さな穴があるのが本来の形で、古くは小さなお経を収めていたのではないかと思われます。しかし平安時代の頃の泥塔は小孔がなくなっています。代わりに、小塔の塔身にお経の文字一字や梵字が刻まれていることが多いようです。このように簡易的に作成した小塔が無数に作られたのが、平安末期から鎌倉初期でした。

泥塔経(奈良国立博物館

なお上記の表で、蓮華王院で八万四千塔を供養している後白河上皇は、三十三間堂(蓮華王院本堂)に1001体もの千手観音菩薩を安置しますが、これも「数は力」思想によるものと見て間違いありません。

鎌倉時代になると、「籾塔(もみとう)」と呼ばれる小塔が出現します。これは宝篋印塔の形をした数センチの木製の塔で、中には籾が入っています(宝篋印陀羅尼が納められる場合もある)。籾を仏舎利に見立てているのです。ご飯を「舎利」というのはここからきているのかもしれません。元来、宝篋印塔は、「銭弘俶八万四千塔」をモデルにしたものですから、小塔造立のためのデザインであったと考えられます。室生寺から発見された3万7387基の籾塔が有名です。これは室町時代(14世紀)に作られたものだそうです。

江戸時代に入ると、「数は力」思想が仏像に及び、大量の仏像の造立がたびたび見られます。最も典型的なのは「五百羅漢像」です。羅漢とは、お釈迦様の弟子の聖者です。大変個性的な方々で、それぞれ特徴を違えた500人の羅漢像が各地で造られました。埼玉の喜多院、東京の五百羅漢寺、京都の石峰寺、島根の羅漢寺などが有名です。京都の石峰寺の五百羅漢は伊藤若冲がデザインして石工に製作させたもので、元来は千体以上あったといいます。

江戸時代には「一字一石経」も各所で作られ埋められました。「一字一石経」とは、一つの小さな石にお経の文字を一文字だけ書いたものです。法華経の場合が多いのですが、法華経は約7万字ありますので、7万個もの石を拾ってそこに字を書いていくのは、ただ法華経を筆写するのに比べ非常な労力を要します。それなのに、石は結局バラバラになってしまうので文章の意味は失われてしまいます。これなどは、経典の内容よりも「数は力」思想によるものと考えないと理解できないでしょう。

また、「数は力」といえば、生涯で10万体以上の仏像を彫ったと言われる円空も思い起こされます。

このように、仏教の「数は力」思想は、日本の歴史を通じて見ることができます。神道の場合は、このように計画的に大量に何かを作るということは稀です。伏見稲荷大社の千本鳥居にしても、結果的にたくさんの鳥居が奉納されて成立したもので、仏教の場合のように「八万四千」など具体的な数を決めて最初から計画的に大量に作ろうとしたのとは違います。

しかし、歴史を通じて、常に仏教の「数は力」思想が貫いていたかというとそうでもなく、「量より質」が重視された時もありました。細かい検証はしていませんが、やはり小塔造立が流行した平安末期〜鎌倉時代と、江戸時代が、「数は力」思想が盛り上がった時と見るのがよさそうです。

ともかく、竜ヶ城磨崖一千梵字仏蹟の岩壁を埋める梵字群も、仏教の「数は力」思想によるものということは明白でしょう。もしかしたら、この磨崖仏が作られたのも、小塔造立供養が流行した平安末期〜鎌倉時代なのかもしれません。

【参考文献】
播磨定男『中世の板碑文化』
奈良国立博物館「銭弘俶八万四千塔」
https://www.narahaku.go.jp/collection/p-961-0.html

円相:月と太陽と鏡

摩崖仏にはしばしば円相が表現されます。円相とは一体何なのでしょうか?

岩屋寺跡円相

円相の多くは、月輪(がちりん)を表していると考えられます。月輪とは、密教の「月輪観」に基づくものです。「月輪観」は、心の中に満月を観じ、その満月が宇宙全体を満たすようにイメージして、世界との一体感と心の清浄を観ずる基本的な観想法(イメージトレーニング)であり、例えばそこから月輪の中に梵字の阿字をイメージする「阿字観」といった観想法へと発展していく土台となるものです。

現代の月輪観の実践でも、心の中に月輪(満月)を描くだけでなく、目の前に「月輪観本尊」と呼ばれる円相を描いた掛け軸などが掛けられます。円相の多くは、おそらくは月輪観本尊として利用されたのではないかと思われ、特に月輪の中に梵字が彫られている場合は、阿字観など発展的観想法に利用されたと考えられます。

旧龍盛寺跡円相
慈眼寺跡円相

しかし、摩崖円相の全てが月輪、つまり満月と考えるのは早計です。例えば、浄土教が普及して阿弥陀如来への信仰が高まると、西に沈む夕日を阿弥陀如来に見立てて拝み、日没後も夕日をイメージする「日想観」という観想法が行われました。月と違って太陽は常に丸く、晴れてさえいれば日没が拝めるので、わざわざ石に円相を刻んで「日想観」を修したかわかりませんが、円相を太陽に見なす考え方もあったのは事実です。

ちなみに阿弥陀如来は、西域(中央アジア)の強い影響の下で生まれた仏であると考えられますが、中央アジアで行われていた太陽崇拝が取り入れられており、「光の仏」というべき存在です。阿弥陀如来は梵名をアミターバといい、これは量りしれない光を持つ者という意味で「無量光仏」とも呼ばれます。この他、同じく中央アジアの影響が強い大日如来は太陽の神格化であり、大日遍照とも呼ばれます。これらは仏教の中でも太陽信仰の性格を持つものといえるでしょう。

このように、仏教には月と太陽への信仰が目立たない形で包含されていました。円相は月であり太陽であったのです。

そもそも、仏教がインドに誕生した時も、信仰の視角化は円相から始まると言っても過言ではありません。最初期の仏教美術では、ブッダは具象的に表現されず、法輪や円光、すなわち円相によって表されました。やがて円光は光背となって仏像のシンボルになります。

また、禅宗でも円相は重視されました。禅宗でも円相を月輪と見ましたが、禅宗の場合は円相の前で月輪観を修するというよりは、円相自体を真理・完全な心の象徴と見なしていました。禅僧たちは水墨画で円相を描き、円相を問答の題材に使いました。禅の修行を牧童が牛を捕らえるのに譬えて十場面に描いた「十牛図」が円相に描かれているのはよく知られています。

頂峯院跡円相

そして、円相は鏡を表す場合もありました。日本では仏教以前から円鏡(銅鏡)を太陽に見立てて神聖なものと見なしていましたから、この考えが仏教の円相と習合していったのかもしれません。こうして日本仏教では「大円鏡智」という考え方も生まれます。これは大きな円い鏡に一切がありのままに映し出されるように、全てを明らかにする清浄な仏智を表します。仏の智慧を鏡で象徴しているわけです。

摩崖円相も、これら様々な円相の考えに基づいていると考えられます。例えば福昌寺跡に残る「鏡月巌」は、福昌寺が禅宗(曹洞宗)であることを考えると、これは月輪観を修したのではなく、「大円鏡智」の考え方で、仏の完全な智慧を表したものだったのかもしれません。

【参考文献】
上田閑照・柳田聖山『十牛図』

福昌寺跡「鏡月巌」
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菅原神社磨崖仏:神仏習合

菅原神社磨崖仏全景

菅原神社磨崖仏は、霧島市隼人町松永にあります。

菅原神社磨崖仏説明版

江戸時代までは、人々は神と仏をあまり区別して考えていませんでした。神社のご神体が仏像であったり、たくさんの神仏に同時に願いを託したりするのは普通のことでした。このように神道と仏教が融合していた現象を「神仏習合」と言っています。

「菅原神社摩崖仏」は、「神仏習合」を表す具体例と言えます。これらの摩崖仏を製作したのは、菅原神社の神官たちでした。神官たちは、まさに自分たちが祭っている天神に祈るのではなく、仏像に祈る方が自分たちの願いが叶えられると思ったのでしょう。ではなぜ、彼らはそのように考えたのでしょうか。

実は、庶民の間では神仏はほとんど同じようなものとして認識されていたのですが、理論的には全く別の存在でした。「神仏習合」といっても、本当の意味で神道と仏教が「習合」(別々の教義や神々が同一視され、一体のものとして扱われること。「シンクレティズム」とも言う)していたのではありません。

宗教における習合現象は、世界各地に見られます。そもそも仏教も、ヒンドゥー教の諸神をその中に取り込んで、帝釈天や四天王といったような存在をその世界観の中に包摂しています。例えば帝釈天は、バラモン教・ヒンドゥー教のインドラにあたります。また、大乗仏教自体が、(歴史的実在の人物としての)ブッダの教えと在来宗教の折衷によって生まれた仏教であるといって差し支えないでしょう。

しかし日本の「神仏習合」では、神と仏に対してこのような包摂や統合、折衷は行われませんでした。ではどのように神仏は共存していたのかというと、仏教伝来から暫くの間は「神は人間と同じように苦悩しており、そのために仏による救済を求めている」という考え(神身離脱思想)が広まりました。こうして一つの世界観の中に神仏を位置づけようとしたのです。ところが10世紀頃になると「日本の神々は、実はインドからやってきた仏たちが姿を変えて降り立った存在なのだ」という「本地垂迹説」という考え方が広まります。例えば、天照大神の本地(本体)は大日如来、八幡神は阿弥陀如来、大国主神は大黒天、といったように、神と仏の関係が様々に案出されていきました。

「本地垂迹説」によって、日本の神の本質は仏だということになって神道と仏教が接続されたのです。しかし、これは仏教がヒンドゥー教の神々を取り込んだような意味で「習合」ではありません。あくまで、神の世界と仏の世界を別個に考え、それを裏側で理念的に繋いだのが「本地垂迹説」でした。これはむしろ、神仏を統合するというよりも、神の世界と仏の世界を併存させるという性格の方が強かったのです。仏教と民間信仰について研究した堀一郎も、日本の「神仏習合」においては「シンクレティズムとよべるほどの体系化は、ほとんど進行しなかった」と述べています。

確かに日本では、歴史のほとんどの期間において、神道と仏教は互いに争うことなく平和的に共存していました。しかしそれは、神道と仏教が融合していたのではなくて、むしろうまく棲み分けていた、といった方が当たっているでしょう。どのように棲み分けていたのかというと、最もわかりやすいのは死後の世界の扱いです。

近世までの神社神道では、死後の世界のことはほとんど全く扱いませんでした。死んだらどうなるのか、魂はどこへ行くのか、といったことには、神道はノータッチだったのです。死後の世界のことは完全に仏教の領域でした。神官の葬式も仏教式で行われました。もちろん死後の安穏を願う場合も、仏様に対して祈られました。

逆に、身近で卑近な願いについては神様へ願うことが一般的でした。商売繁盛、病気平癒といったような願いです。こういう現世利益的な願いを託すには、仏の世界というのは遠すぎました。例えば阿弥陀如来の極楽浄土は十万億の仏土の彼方にあると考えられていましたが、こんなに遠くにあっては、病気平癒のような願いは聞き入られそうにもありません。

菅原神社磨崖仏 「天神御本地」十一面観音

「菅原神社摩崖仏」に菅原神社の神官たちが仏像を刻んだ理由も、その願いが彼岸的(あの世的)なものだったからにほかなりません。たくさんの摩崖仏がありますから、いろいろな願いが託されていたのでしょうが、それは天神様には叶えられない、死後の世界のことが中心だったでしょう。とはいえ、本来は天神様の御利益を主張していたはずの神官たちですから、たくさんの仏像を刻むことに少しバツの悪い思いがあったのかもしれません。そこに天神の本地「十一面観音」を刻んだのは、彼らも神と仏の世界を接続する義理を感じていたからのように思われます。

【参考文献】
逵 日出典『神仏習合』
佐藤 弘夫『アマテラスの変貌—中世神仏交渉史の視座』
高取 正男『神道の成立』

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高田磨崖仏:デウス・オティオースス

高田磨崖仏 全景

高田磨崖仏は、南九州市高田にあります。(高田は「タカタ」と読む)

高田磨崖仏 大黒天

高田磨崖仏は、刻まれている内容が独特です。

観音菩薩、阿弥陀如来、薬師如来、毘沙門天、そして大黒天です。またこの他に、時代が異なる天照大神の立像もあります。

このラインナップはあまり脈絡がないように見えます。特に磨崖仏としては滅多に見られない大黒天の存在が謎です。

その謎を解くことはできませんが、たくさんの尊像が製作された背景を考えてみましょう。

日本の磨崖仏は、多くが密教の考え方に基づいてつくられました。密教の主尊は大日如来。別名「毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)」ともいい、奈良の大仏もこの仏です。大日如来は真理そのものが神格化されたもので、最高の存在として崇敬されました。

しかし密教では大日如来の他にも多種多様な仏を崇めました。曼荼羅というのは、そうした仏たち(仏、菩薩、明王、天など)の秩序や世界観を表現した図像ですが、大変たくさんの仏が大日如来を取り囲んでいます。密教では大日如来という最大にして最高の存在があったのに、なぜ同時にたくさんの仏も信仰されたのでしょうか。

それは、神仏の機能分化と関係があります。

人は神仏に様々な願いを託しました。戦勝、病気平癒、安産、除災招福、商売繁盛、極楽往生、呪詛といったものです。もちろん宇宙の真理そのものである大日如来にこうした願いをかけてもよかったのでしょうが、こうした現実の生活に即した願いには、それに適した神仏に願をかける方がより効果的だと考えられました。例えば病気平癒なら薬師如来、極楽往生なら阿弥陀如来といったようにです。特定の分野に専門化した仏の方が、確実に願いが聞き入れられると感じたのは自然なことです。

このようにして、人々の願いの数だけ仏が生みだされたと言っても大げさではありません。例えば「とげぬき地蔵」(東京都豊島区、高岩寺)、「眼の観音様」(京都府長岡京市、楊谷寺の柳谷観音)、「イボ取り地蔵」(全国各地)など、「ここの観音さまは特に○○に御利益がある」と、ある種の願いにさらに細分化していった場合も少なからずありました。大日如来にイボ取りをお願いしてもあまり聞き入れなさそうですから、やはりイボ取りは「イボ取り地蔵」に任せたいものです。

こうした次第でしたから、密教での最高の仏である大日如来には、庶民の卑近な願いが託された様子はありません。大日如来は密教では本来最も中心となる主尊であるにも関わらず、「真理そのもの」といった抽象的性格から、具体的な願いとは縁が遠くなり、人々の信仰から遠ざかったのです。

同様の現象は世界各地の宗教で生じています。世界を創造した至高神ではなく、そこから分掌された専門化した神々への信仰が中心となり、至高神に願うことはほとんどなくなる、という現象です。このように人々から閑却された至高神のことを、宗教学では「デウス・オティオースス(暇な神)」と言っています。大日如来は閑却まではされていませんが、「デウス・オティオースス」的な一面もあるようです。

それはさておき、高田磨崖仏を製作した人は様々な願いを抱え、それを同時に叶えようとしたのかもしれません。では大黒天に託された願いは何でしょうか? それは福神信仰かもしれませんし、食事の守護神として彫ったのかもしれません。また、高田磨崖仏の場合は明らかに違いますが、甲子待ち(きのえねまち)(※)の本尊として大黒天が彫られた場合もあります。

もしくは、いろいろな仏を刻んでおいてどのようなケースにも対応可能とした一種の曼荼羅だったのかもしれません。でもその場合、主尊の大日如来を彫るのをついつい閑却していたということになりますね。

※ 甲子待ち……甲子の日の夜に、子(ね)の刻まで夜更かしして大黒天を祭る行事。

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鹿児島の磨崖仏巡り、中間報告会の第2回をやります!

「鹿児島の磨崖仏を全部網羅したガイドブックを作ろう!」というところから始まったプロジェクト「鹿児島磨崖仏巡礼」。6月に第1回の報告会を行ってご好評をいただきました。第2回となる今回も、これまでに巡った磨崖仏を紹介し、その面白さを自由に語ってみたいと思います。

鹿児島磨崖仏巡礼vol.2

日時 2020年12月5日(土)17:00〜19:00
会場 レトロフトMuseo (〒892-0821 鹿児島市名山町2-1 レトロフト千歳ビル2F)
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≪磨崖仏≫とは?
岩壁や巨大な岩など、自然の石に刻んだ仏像(または仏教的造形物)のこと。鹿児島にはいくつの磨崖仏があるのか、その全貌は未だに不明。
「鹿児島磨崖仏巡礼」では、磨崖仏の紹介だけでなく、磨崖仏を通じて昔の人の信仰を紐解いていきたいと思っています。

<登壇者>
川田 達也
写真家。人知れず埋もれゆく鹿児島の古寺跡や風景に感銘を受け、その姿を撮り続けている。著書『鹿児島古寺巡礼』。ブログ「薩摩旧跡巡礼」。

窪 壮一朗
自称「百姓」。「南薩の田舎暮らし」代表。明治維新前後の宗教政策に関心。著書『鹿児島西本願寺の草創期』。ブログ「南薩日乗」。

下丁場摩崖仏:連刻板碑

下丁場摩崖仏の板碑部分

下丁場磨崖仏は、さつま町永野にあります。

元来、「碑」とは中国的・儒教的なもので、「塔(卒塔婆=ストゥーパ)」とはインド的・仏教的なものです。板碑とは、碑という儒教的形式によって仏塔を表現した、日本オリジナルの仏教造形物です。その基本形は、上部が山型になった細長く薄い岩で、上部に横2条の切り込み線、その下に「額」または「額部」とよばれる出っ張りがあって(ただし時代が下ると出っ張りはなくなる)、その下に梵字が刻まれているというものです。

五輪塔や宝篋印塔、層塔、宝塔といった他の仏塔と板碑が全く違うところは、他の仏塔がその形態そのものに仏教的な意味があるのに対し、板碑の場合はその形態ではなく、あくまでも刻まれる内容に意味があるという点です。例えば他の仏塔の場合、造塔自体に功徳があると見なされたので、造立者、制作年(紀年銘)、目的などが全く刻まれていない場合も多いのです。ところが板碑の場合は、文字を刻むことに意味があったため、造立者などが刻まれていることが多く、文字情報が豊富に残っています。

もちろん板碑も仏塔ですから、主目的は主尊安置・崇拝で、最も大事なのは仏像の種子(しゅじ)としての梵字です。しかし仏像そのものを刻んでもよさそうなものなのに、梵字があしらわれているのがほとんどなのを考えると、板碑の製作者たちは、どうも形態や図像ではなく、文字によって表現することにこだわりがあったように思います。いうなれば、板碑は中世のタイポグラフィー(文字によるデザインの)仏塔なのです。

板碑の中心は関東、特に埼玉県です。板碑は全国に5万基以上ありますが、埼玉県にはそのうちの2万基ほどが存在しています。埼玉県秩父地方では、緑泥片岩(いわゆる青石)が豊富に採取でき、この石は薄く加工することが容易なために板碑製作に適していました。鎌倉時代、関東に集められた御家人たちは板碑の造立を行い、また全国の所領に分散していくことで板碑文化を伝えていったと言われます。板碑は他の仏塔よりも形がシンプルで製作が容易だったために庶民にも手が届くものだったらしく、鎌倉・室町時代には全国で造立され、特に南北朝時代には造立のピークを迎えました。しかしその後造立は急減し、江戸時代になると製作されなくなります。中世とともに勃興し、そして消えていったのが板碑だといえるでしょう。

ところで板碑には、いくつかの板碑が連続している「連碑」があります。例えば二連の板碑は、夫婦(父母)の供養によく使われました。一つの石に二つ分の板碑を刻むほか、別々の石で一対の板碑とするのも連碑としています。鹿児島の湧水町(栗野)にある稲葉崎供養塔群には、このような対となった立派な板碑が何組か存在しています。また、数は少ないですが三連の板碑も、おそらくは三尊形式との類似から製作されました。

しかし、四連以上の板碑は、普通の板碑では製作されず、磨崖板碑としてしか伝わっていないようです。板碑を四連以上にするのは構造的な無理があったのでしょう。一方、岩壁というのは横に広がっているものなので、磨崖板碑の場合は連続させる方がデザイン的な落ち着きがあったからだと思います。

ここでは、四連以上の磨崖板碑を仮に「連刻板碑」と呼ぶことにしましょう。連刻板碑は全国的に非常に少ないと思われます。鹿児島には、「下丁場摩崖仏」の他、16連の「清水磨崖仏群(南九州市川辺町)」、7連の「七人山磨崖連碑(さつま町湯田)」の三ヶ所のみのようです。他の地域では大分県に磨崖板碑が多いようで、「道園線彫板碑(豊後高田市香々地)」、「梅の木磨崖仏(豊後高田市夷)」には共に21連の連刻板碑があります。また山形県には、5連の「永仁二年磨崖板碑 (南陽市赤湯)」があります(ただしこれはデザイン的には2連+3連になっていて、銘文が5連に渡って刻まれている)。

清水磨崖仏群 16連板碑

連刻板碑が何連で構成されるかが、どのような理論に基づいていたのか分かりません。大分の21連の磨崖多連碑はどうやら21という数に意味がありそうですが、他はないように思われます(スペースの都合上で連結数を決めているような感じ)。下丁場摩崖仏も、右側の7連、左側の8連という2つの磨崖多連碑がありますが、その梵字(種子)の構成も決まったセットというわけではないようです。

また、左側の8連の連刻板碑には、梵字の下に謎の文字が刻まれています。一見、梵字に似ていますが梵字ではなく、かといって模様というわけでもない、謎の存在です。これには何らかの意味が託されているのでしょう。それにしても、独特な何かを「文字」で表現したところが、いかにも中世のタイポグラフィー仏塔としての板碑っぽさといえるでしょう。

七人山磨崖連碑

【参考文献】
『中世の板碑文化』播磨 定男
『石塔の民俗』土井 卓治

久住阿弥陀山磨崖仏:方形内梵字

久住阿弥陀山磨崖仏(部分)

久住阿弥陀山磨崖仏は、薩摩川内市久住町にあります。

磨崖梵字は、普通、円の中に刻まれます。ところが久住阿弥陀山磨崖仏では、四角の中に刻まれた梵字が見られます。

なぜ普通は梵字が円の中に刻まれるのかというと、密教で行われる観想法が関係しています。「観想」というのは、イメージトレーニングのことです。何段階もの観想があり、順を追ってそれを行うことで悟りの境地へと導かれるのだそうですが、その基礎に「月輪観(がちりんかん)」があります。

ここでは詳細は述べませんが、「月輪観」とは心の中に美しい月輪=満月が存在することをイメージし、その清浄なありさまと一体不離となる観想法です。

そしてその月輪の中に梵字の「阿字」を思い浮かべるのが「阿字観(あじかん)」です。「阿字」は金剛界大日如来を表す種子(しゅじ)でもありますが、「阿字観」では万物の根本という意味で使われます。この「阿字観」を修することで、全宇宙(正確には「一切衆生」)と自己とが同体であると認識されるそうです(「阿字観」『興教大師覚鑁全集』による)。

こうした観想法があることから、梵字といえば月輪中に思い浮かべるものと相場が決まっていましたし、磨崖梵字として表現する場合も月輪=円の中に描くのが当然でした。

しかし、久住阿弥陀山磨崖仏の場合、四角の中に梵字が刻まれています。これは一体どのような信仰に基づくものなのでしょうか?

実はこのような「四角の中に刻まれた梵字(ここでは仮に「方形内梵字」と呼びましょう)」は少ないながら他にもあります。例えば久住阿弥陀山にほど近い倉野磨崖仏です。中心的な存在である「オーンク」は月輪内にありますが、両側の梵字は全て「方形内梵字」になっています。

【参考】倉野磨崖仏:梵字

近接した二つの磨崖仏の両方に「方形内梵字」があることは、おそらく偶然ではないのでしょう。この地域には、もしかしたら独特な信仰が存在したのかもしれません。

この地域を含む川内川流域一帯は、中世には「渋谷氏」という一族が治めていました。渋谷氏の本拠地は相模国渋谷庄(神奈川県綾瀬市、藤沢市、海老名市等にまたがる地域)で、東京の渋谷も、渋谷氏が領有したことから名付けられた地名です。渋谷氏は、薩摩半島北部を領有していた千葉常胤(つねたね)が宝治合戦(1247年)で討たれた結果、その領地を源頼朝から与えられます。

本拠地から遠く離れた薩摩国の所領は、渋谷氏の次男以下の五男に分割(東郷、祁答院、鶴田、入来院、高城)して与えられ、やがてその子孫達が所領地に移住しました。その移動は、一族はもちろん家臣を引き連れてのものであり、一家につき50家500人程度の規模が推測され、最小でも全体で2500人規模の移住が行われたと考えられています。こうして関東から大挙してやってきた渋谷一族が、北薩に一大勢力を持つことになりました。

渋谷氏が元来どのような信仰を携えて鹿児島にやってきたのかは、よくわかりません。しかし中世においては一族の結束を保つために信仰は重要でしたから、渋谷氏のアイデンティティと結びついた信仰があったのかもしれません。

なおこの磨崖仏が製作された南北朝期には、渋谷氏は禅宗を受容し菩提寺として龍游山寿昌寺を創建します(※)。久住阿弥陀山磨崖仏の願主と考えられる入来院重門は寿昌寺を篤く保護しました。寿昌寺は臨済宗聖一派の寺で、この宗派は臨済宗の中でも真言宗や天台宗をとりいれた禅密兼修の習合禅とでもいうべきものです。

ちなみに、川田達也さんによれば川内川流域には戒名を(石に彫らずに)墨書きした墓塔が多く、これも他の地域とは異なる特徴だそうです。渋谷氏との関係は不明ですが、方形内梵字といい、墨書き墓塔といい、川内川流域には少し変わった独特な仏教文化があったようです。

※寿昌寺の創建については、寺伝などにおいては入来院家初代定心によるものとされていますが、史料での初見が延文二年であるため実際には南北朝期の創建と考えられています(上田純一『九州中世禅宗史の研究』)。

【参考文献】
小島 摩文編『新薩摩学 中世薩摩の雄 渋谷氏』
上田 純一『九州中世禅宗史の研究』