清水磨崖仏群:磨崖仏の勝地

清水磨崖仏(一部)

清水磨崖仏群を構成する202の磨崖仏のほとんどは、磨崖仏塔です。陽刻五輪塔が150基以上と最も多く、線刻宝篋印塔が30基あってそれに続きます。これらの著しい特徴は、多くが連刻であることで、五輪塔や宝篋印塔がいくつも連続している様子は、他ではあまり見られないものだと思います。特に線刻宝篋印塔の連続(多連塔)は、他に例のないものと言われています。清水磨崖仏群で連刻が多い理由はよくわかりませんが、おそらくは個人というより夫婦や一族の供養塔という意識が強かったためではないかと考えられます。

どうして清水にこれほど大量の磨崖仏が造営されたのでしょうか。

その最大の理由は、ここに磨崖大五輪塔があったためでしょう。この大五輪塔は、清水磨崖仏群の中で最初に製作されたと考えられており、平安時代後期の製作と推定される、日本で一番大きな五輪塔の表現です。今は風化が進んでボロボロになっていますが、造営当時は平面に磨かれた壁面であったらしく、そこに深いシャープな線で8m65cmもの五輪塔が刻まれています。また五輪塔の周囲には大量の枡目状の彫り込みがあり、そこに一字ずつ梵字が墨書きされていました。ただしこの墨書き梵字のほとんどは風化によって失われています。

大五輪塔

この大五輪塔は、五輪塔として日本でも最古級のものと推測され、その巨大さはもちろん入念な細工が施されている様子を鑑みても、中央で仏教文化を身につけた人物が、かなりの財力を傾けて製作されたものであると考えられます。磨崖仏として非常に価値の高い遺品です。

そしてこの巨大かつ入念な大五輪塔によってこの地は勝地(聖地)と見なされ、供養塔や仏像などを刻むのに適した場所と考えられたに違いありません。そのために月輪大梵字などが造営されて、なお一層、勝地としての価値が上がり、鎌倉時代後期から多くの磨崖五輪塔・宝篋印塔の造営が続いたのでしょう。

しかしではなぜ大五輪塔は清水の地に製作されたのでしょうか。またこの地が磨崖仏の勝地と見なされた理由は大五輪塔の存在だけではないでしょう。ここには磨崖仏の造営に適したいくつかの理由があったのです。

第1に、磨崖仏に適した岩壁であることです。清水磨崖仏が存在する場所は、ほぼ垂直で10m以上も高さがある岩壁が続いています。それだけでも稀有なことですが、ここがさらに磨崖仏に適しているのは、岩壁が真っ平らではなく、屏風状に凹凸があることです。理由はよくわからないのですが、磨崖仏は屏風状になった岩壁に好んで造営されました。

第2に、水が豊富にあることです。磨崖仏と水はどうやら関係があるようで、河野忠による臼杵磨崖仏(大分県)の調査では、対象の50箇所の磨崖仏のうち、湧水または湧水跡がある磨崖仏が全体の94%に上ります。平安時代、水は浄土との境と考えられていました。例えば宇治の平等院鳳凰堂(蓮華王院)には池がありますが、これは浄土式庭園といって、浄土の様子を模すための池なのです。清水磨崖仏では、川の対岸から磨崖仏を見ると、水を境として西方に磨崖仏を見ることになるので、ちょうど西方浄土を拝む形になったのです。

第3に、太陽や月とも関係しているかもしれません。特に月輪大梵字については、川の対岸から磨崖仏を見た時の春分・秋分の日の入りと関係があるのではないかと考えている人もいます。密教には日想観や月想観といって、日没の太陽や満月を聖なるもの(特に阿弥陀如来)と見なして拝む修行がありました。こうした観想法を基盤として月輪大梵字が供養・礼拝されていたのかもしれません。

そして最後に、この地域に仏教文化の基盤があったということです。いくら地形的に磨崖仏に適した場所であっても、人里離れた山奥では作りっぱなしになります。供養塔はもちろんのこと、大五輪塔や月輪大梵字のようなものも継続的な供養や管理が必要だったことは疑いありません。そのためには、供養や管理の基盤となる寺院が必要ですし、人里から遠すぎる立地も好まれなかったでしょう。

川辺の清水周辺には、中世時代の領主だった河辺氏の居館があったとされ、また雲朝寺跡、宝光院跡などの古い寺院跡が残っています。近くの水元神社には薩摩塔という特殊な仏塔が残っており、これは万之瀬川を通じた大陸との交易と関係する地域だったからなのかもしれません。さらに近年の調査で、磨崖仏の対岸にある弁財天岡の頂上より古墳時代の遺跡(岩屋園遺跡)が発見されました。この地域は今でこそ田舎ですが、中世においては南薩の文化的中心であったと考えることもできそうです。

こうしたいくつかの理由から、清水には平安時代後期から明治時代という長い期間、磨崖仏が造営され続ける特異な場所になりました。清水磨崖仏は、磨崖仏としては初めて鹿児島県指定文化財になっており、将来に引き継いでいくべき重要な遺産です。

しかし古い磨崖仏は既に風化が激しく、保存には課題もあります。以前は磨崖仏の近くまで立ち入ることができましたが、岩壁の剥落の危険があるということで数年前から立ち入り禁止になりました。よい保存方法が適用され、また間近で見られるようになることを願っています。

【参考文献】
鹿児島県川辺町教育委員会『清水磨崖仏群—清水磨崖仏塔梵字群の研究』
知足美加子「月輪大梵字の秘密—空と水と英彦山修験道—」(講演資料2019.5.31)

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鹿児島磨崖仏巡礼vol.3    
日時 2021年7月3日(土)18:00〜20:00    
会場 レトロフトMuseo (〒892-0821 鹿児島市名山町2-1 レトロフト千歳ビル2F)    
<鹿児島市電>朝日通り電停より徒歩2分    
※会場には駐車場がありません。   
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要申込:定員15名 ←感染症予防のため定員を減らしています。   
参加料:1000円    
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清水磨崖仏群:羅睺と計都

清水磨崖仏「月輪大梵字」全景

清水磨崖仏群は、南九州市川辺町にあります。

清水磨崖仏「月輪大梵字」

清水磨崖仏群は、鎌倉時代から室町時代にかけての五輪塔や宝篋印塔、明治時代の磨崖仏によって構成され、鹿児島県の磨崖仏としては最大規模を誇り、まさに鹿児島を代表する磨崖仏群といえます。

清水磨崖仏群は202もの磨崖仏によって構成されますが、その中心は鎌倉時代に製作された「月輪大梵字」と「大五輪塔」です。ここでは「月輪大梵字」について述べます。

月輪大梵字は、直径2メートル近くもある3つの月輪とそこに彫られた梵字で構成されます。実は、これが一体なんのために作られたものなのか、よくわかっていません。それどころか、清水磨崖仏群の研究をライフワークとした齋藤彦松先生も、この梵字が表す仏を突き止めるのに数十年を要しています。

齋藤先生によれば、3つの梵字は左から「カーン:不動明王」「ケー:計都(けいと)」「バイ:薬師如来」を表すそうです。そのうち、同定に苦心したのが真ん中の「ケー:計都」です。「カーン」と「バイ」については日本での重要信仰梵字なので当初から分かっていたのですが、「ケー」は一般的ではない梵字のため長く不明だったのです。そもそも「計都」とは何なのでしょうか?

それを理解するためには、「宿曜道(すくようどう)」という仏教占星術・天文学について説明しなければなりません。

日本の古代律令国家には「陰陽寮」という役所が置かれていました。これは暦や天文、吉凶の占いについて担当する役所で、特に天体観測を担当していました。儒教では、天変地異で天意が示されると考えられていたため、日食や月食、星の犯(惑星の近接)がいつ起こるかは極めて政治的な意味を持っていたからです。古代において天体現象というものは、現代とは違って社会的に非常に重要なものだったのです。

そんな中、平安時代に仏教的な占星術を述べたお経『宿曜経』が空海によってもたらされます。そして『宿曜経』を基盤として、インド由来の占星術が仏教的に潤色されて「宿曜道」が成立していきます。陰陽道とは全く別の大系に基づく占星術でした。そして元来の宿曜道は暦や惑星の位置によって吉凶を占うものでしたが、それだけでは未来の特定の日の吉凶を予言することができないので、やがて惑星の運行を予測するようになりました。その惑星の運行理論はかなり正確な観測に基づいたもので、中国で撰述された『七曜攘災決』という論書に惑星の運行表が述べられています。

宿曜道では太陽と惑星を「九執(きゅうしつ)」または「九曜」といい、太陽、月、火星、水星、木星、金星、土星の7つに「羅睺(らこう)」と「計都」を加えた9つの天体を指しました。日月火水木金土は現実の惑星ですが、「計都」と「羅睺」とは何かというと、日本の仏教での伝承では、「羅睺」は日月食を起こす魔物、「計都」はその尻尾または彗星といわれ、架空の天体であると考えられてきました。しかしその運行表が妙に科学的であるため、現代の科学で計算したところ、「羅睺」は月の昇交点であり、「計都」は月の遠地点であることを矢野道雄が解明しました。

では、実際の天体ではない理論的な点をなぜ宿曜道では天体として扱ったのかというと、計算の便宜が関係しています。宿曜道でも、日食は重要な天体イベントだったのですが、太陽と月のそれぞれの軌道計算を行えばいつ日食が起こるかは予言することができます。しかし日食はそもそも太陽と月が重なる(太陽・月・地球が一直線になる)時にのみ起こるのですから、太陽の軌道(黄道)と月の軌道(白道)が重なる点を便宜的に天体と見なしてその移動を表現することで計算の手間が省けるわけです。この黄道と白道の重なる点は、円の交点なので2つあって、現代の科学ではそれぞれ昇交点と降交点と呼ばれていますが、このうち昇交点の方を昔の宿曜師は「羅睺」と呼んでいたのです。なお月食の方も、太陽・月・地球が一直線になるというのは一緒です。

一方「計都」の方の議論はややこしいので省略しますが、月の遠地点であり、これは月が地球から最も小さく見える点です。どうやら宿曜道では、月の大きさが変わることを重要視していたようです。

つまり「計都」も「羅睺」も月の運行に関して計算の便宜のために導入された天体だったわけです。しかしインド以来の天文学が中国・日本と伝来する過程でそうした大前提が忘れられ、魔物としてのみ存在が広まっていったのだと思われます。というわけで、月輪大梵字の中心である「計都星」は、元来は宿曜道の理論における遠地点ですが、当時の日本ではおそらく日月食に関係する超自然的存在であると認識されていたと考えられます。

ちなみに、陰陽道が早くから律令国家に取り入れられたのと違い、宿曜道の方は密教の一要素となって国家機関化はせず、南北朝期か遅くとも室町初期には衰微してしまいます。

そして話は清水磨崖仏に戻りますが、江戸時代にまとめられた『河邊名勝誌』には、月輪大梵字の下に銘文が残されていたと記録されており、銘文の写しとともに当時の様子が記述されています。そこには、「5つの円相梵字がある。英彦山の□□坊(判別できず)が法界衆生平等利益のために作った。弘長4年(1264)」という趣旨のことが書いています。今の月輪大梵字は3つですが、元は5つあったというのです。右側の2つは岩壁の剥落によって失われていたのでした。

では失われた右の二つにはどのような梵字が書かれていたのでしょうか。それを推測するヒントとなったのが先ほど説明した「計都」です。5つの梵字の中心は薬師如来ですから、その左側に「計都」があるならば、右側にはそれと対になる「羅睺」があったはずです。つまり、薬師如来の脇侍として「計都」と「羅睺」が表現されていたわけです。

実は、薬師如来は天体との関係が深い仏です。有名な薬師寺の薬師如来像も脇侍として日光菩薩・月光菩薩という天体が神格化された菩薩を従えています。薬師如来が「計都」と「羅睺」を脇侍にしている例は他に知りませんが、通常の日光月光菩薩ではなくあえて「計都」「羅睺」にしたことは非常に興味深いです。

右端の梵字については、左端の「カーン:不動明王」と対応する護法神であるはずだということで、こちらは「羅睺」ほど確かではありませんが「毘沙門天」が推定されています。

では、この5つの巨大な梵字は何のために作られたのでしょうか? 銘文によれば「法界衆生平等利益のため」ということなので、要するに「みんなのために作った」ということですが、これはあまりに茫漠としています。このような巨大な磨崖仏を彫ることは、足場を組むにしろ、崖上から命綱でつり下げて彫るにしろ、大変な労力がかかるものですし危険も大きいのです。相当なエネルギーをかけてこの磨崖仏を製作しているので、かなり切実な気持ちがあったに違いありません。

『清水磨崖仏群—清水磨崖仏塔梵字群の研究』より

確かに、この時代は大変な時代でした。月輪大梵字が作られる前には、鎌倉には地震・暴風雨・飢饉・疫病・火災・旱魃などの災害が相次いでいます。例えば『吾妻鏡』を見てみると、毎年のように地震、大火事、暴風、大雨、洪水などの記事が見られます。特に康元2年(1257)の大地震では「神社仏閣一宇として全きことなし」と書かれたとおり甚大な被害がありました。その上、皆既月食が1259年に起こり、その後たまたま飢饉や疫病が起こったので世情の不安は掻き立てられました。こういう情勢の中、日蓮はこのままでは日本が滅びると考え『立正安国論』を著します(文応元年(1260))。

もちろんこれは鎌倉の話で、この南薩の地で災害が立て続けに起こったという記録はありません。しかし英彦山(現福岡県)の修験者が月輪大梵字を製作したとするならば、南薩地域のことではなく、全国的な危機に対応して作られた磨崖仏であることは確かだと思います。そしてここで特に考慮に入れたいのは、薬師如来の脇侍が「計都」「羅睺」になっているということで、これは日月食との関連が推測されます。磨崖仏が製作される2年前の弘長2年(1262)にも皆既月食が起こっているので、磨崖仏はもしかしたら月食後の不安に対応したものだったのかもしれません。

いずれにせよ、このような巨大な磨崖仏を製作したということは、個人の往生などではなく、もっと大きな願いがあったと考えるのが自然です。南薩の辺鄙なところにある磨崖仏ですが、大きな視野で考えていく必要がありそうです。

【参考文献】
鹿児島県川辺町教育委員会『清水磨崖仏群—清水磨崖仏塔梵字群の研究』
矢野道雄『密教占星術—宿曜道とインド占星術』
黒田俊夫『蒙古襲来(日本の歴史8)』
国立天文台 日月食等データベース
 https://eco.mtk.nao.ac.jp/cgi-bin/koyomi/eclipsedb.cgi

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長崎堤防磨崖仏:心即是仏

長崎堤防磨崖仏:横には堤防の完成を祈念して作った旨の銘文が彫られる。

薩摩川内市の長崎堤防の近くには、「心」とだけ刻まれた磨崖仏があります。これには一体どのような意味があるのでしょうか? そしてこれを磨崖仏と認めてよいものでしょうか?

この磨崖仏は、長崎堤防の築造責任者である小野仙右衛門が、堤防が完成する前年(貞享3年(1686))に堤防の完成を期して作ったものです。この年、彼の娘が洪水で亡くなっており、その供養の意味も兼ねていたのかもしれません。なおそのことは、やがて娘が人柱になったという伝説(袈裟姫伝説)となっていったようです。

しかしそれにしても「心」と刻むことにどのような宗教的な意味があったのでしょうか。実は江戸時代には「心」と刻まれた墓塔が非常に多く見られます。それまで梵字が刻まれていた部分が「心」に置き換わっているのです。この「心」は何を表しているのでしょうか。

結論を先に言えば、やはりこの「心」も梵字と同じように仏を表しているのではないかと思います。というのは、特に禅宗において「心こそが仏である」という観念が発達していったからです。

非常に大きな影響力を持った大乗仏教の論書に『大乗起信論』という本があります。これは一応インドで撰述されたものの翻訳(中国語訳)という形態を取っていますが、6世紀に中国でまとめられたものと考えられています。

『大乗起信論』の要諦は「如来蔵思想」です。これは、人は誰でも如来になることができる本質を内在している、という思想です。その本質は「衆生心(一心)」であるとされており、心のあるがままの真実の世界(真如)こそが悟りの境地であるとしています。

長崎堤防磨崖仏全景

ところで、中国のインテリは古代から無神論的でした。既に紀元前の諸子百家の時代において、鬼神の実在はほとんど信じられていません。一方で大乗仏教には夥しい数の仏・菩薩が存在し、その功徳が主張されました。おそらく、そうした話は中国のインテリにとって迷信的なものに感じられたことでしょう。そこで、仏というのは歴史的実体やましてや超自然的存在ではなく、「心の在り方」そのものなのだという観念論によって、中国で大乗仏教が合理的に再解釈されていきます。

禅宗では心の在り方を重視する観念論がさらに確立します。唐時代の初期禅思想の完成として位置づけられる『伝心法要』(黄檗希運の講義録)では、その冒頭で直接的に「あらゆる仏と、一切の人間とは、ただこの一心にほかならぬ。そのほかのなんらかのものはまったくない(諸仏と一切衆生と唯是れ一心にして、更に別法なし)」と表現されています。そして随所に「この心こそが仏にほかならない(此心即ち是れ仏)」と繰り返されます。

日本でも北条顕時が『伝心法要』を愛読し、弘安6年(1283)に来朝僧大休正念に命じて出版させており、これは日本での禅籍流布のはじめとされています。本書は江戸時代の後半になると影響力を失ったようですが、それまでたびたび刊行されました。

「心即是仏」を素直に受け取れば、仏ではなく心を供養し礼拝するということが起こってもおかしくありません。中世においては、墓塔や磨崖仏に刻むものといえば梵字でしたが、そもそも梵字は仏を表す記号ですから、仏=心であればわざわざ梵字を仲介させる必要はないので、江戸時代にはこれが「心」に置き換わったのではないでしょうか。中世の特色である梵字から「心」への転換、その象徴的な実例が長崎堤防の「磨崖心」であるように思われます。

【参考文献】
柏木弘雄訳『大乗起信論』(筑摩世界古典文学全集『仏典II』所収)
宇井伯寿訳注『伝心法要』
入矢義高訳『黄檗伝心法要』(筑摩世界古典文学全集『禅家語録I』所収)

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梅ヶ渕観音:観音と33

梅ヶ渕観音は、鹿児島市伊敷町にあります。

梅ヶ渕観音全景

観音菩薩は、仏の中でも特に現世利益の性格が強い存在です。観音の功徳は『法華経』の「観世音菩薩普門品第二十五」(いわゆる『観音経』)に詳しく書かれています。

それによると、観音はその名前を唱えるだけで七難を免れるように救ってくれるそうです。例えば川で溺れた時に「観音菩薩ー!」と名前を唱えると浅瀬を準備してくれるのだとか。火事になった時にも、その名前を唱えれば火の中から抜け出せるといいます。どうやら観音菩薩は、かなり即物的な救いを提供してくれるようです。

それだけではありません。『観音経』には、観音菩薩が救ってくれるシチュエーションが列挙されています。処刑されようとしているときに、その名前を唱えると死刑執行人の刀の刃が折れてしまうとか、盗賊に襲われた時には逃げられるようになるとか、さらには罪があって枷(かせ)や鎖で捕らわれている時も、そこから抜け出せるための隙間を用意してくれるとか述べています。罪がない時に逃げられるならわかりますが、罪があってもその罰を逃れられるようにしてくれるというのは随分都合のよい功徳です。

もちろんこういう現金な願いだけではなく、怒りを離れられる、迷妄を取り除いてくれるという内面的な功徳もあります。

そして、そういった多様な願いを叶えるために、観音菩薩は様々な姿に変化するのだと考えられました。『観音経』では、観音は仏にもなり梵天(神)にもなり、長者にもなり修行者にもなり、童男・童女や竜や阿修羅(悪魔)にもなって、その場その場でその人を救うのに一番適した姿になるのだと書かれています。数えてみるとそこには35の姿が述べられています。これがいわゆる「観音の三十三身(三十三応現身)」です。

『法華経』では観音が変化(へんげ)するのは35の姿なのですが(サンスクリット語原典だと16)、これがいつのまにか33に定型化していきました。どうやら古代インドの世界観で忉利天(とうりてん)といって世界を33の「天」に分ける考えがあるのですが、「三十三身」はそれに影響を受けて整理された数のようです。

また、「観音の三十三身」はどういうわけか、33種類の観音菩薩がいる、ということに意味が転化し日本では「三十三観音」が考案されました。「三十三観音」とは、楊柳観音、龍頭観音、持経観音など、いろいろなタイプの33種類の観音菩薩です。中でもハマグリの中におわす「ハマグリ観音」こと蛤蜊(こうり)観音、大きな魚の上に乗っている姿の魚籃(ぎょらん)観音などが変わり種です。ちなみにこの33種類には、聖観音や千手観音、馬頭観音といったよく見る観音はなぜか含まれておらず、どれもこれもあまり聞かないような観音様ばかりです。さらに、『観音経』で述べられたシチュエーションに対応しているわけでもありません。ちなみにメジャーな観音は「六観音」と呼ばれており、聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、准胝観音の六つを指します。

さらに、「観音の三十三身」や「三十三観音」から刺激を受けて、33箇所の観音の霊場を巡る「三十三観音巡り」が行われるようになりました。ややこしいのは「三十三観音巡り」では、「三十三観音」(先ほど述べた33種類の観音菩薩)を巡るのではないということです。だから全国にいろいろな「三十三観音巡り」のコースがありますが、その33箇所の霊場に祀られているのは六観音が多く、蛤蜊観音のような変わり種がそこに含まれていることはほとんどありません(おそらく皆無)。「三十三観音巡り」なのに「三十三観音」は見られないというのが混乱します。観音はいろいろなことが33に関連づけられた結果、とてもややこしくなってしまいました。

ところで全体的に観音菩薩は水との関係が深く、一説にはペルシア神話のアナーヒターという川や水を司る神が観音菩薩の起源の一つだとされています。実際、「三十三観音」でも水に関係したものが多く見られます。

さて、梅ヶ渕観音は、どのような観音様なのでしょうか? 「三十三観音」の中の一つのような気はしますが、これという決め手はありません。そもそも観音菩薩なのかどうかすら確証はありません。下方に流れていく衣紋はどことなく水の流れを連想させ、観音であるような雰囲気は感じますが…。鹿児島では知らない人が少ない有名な観音は、謎の観音様でもあるのです。

【参考文献】
中村 元『法華経(現代語訳 大乗仏典2)』

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鹿児島の磨崖仏巡り、第3回中間報告会をやります! 今回は「清水磨崖仏スペシャル」

「鹿児島の磨崖仏を全部網羅したガイドブックを作ろう!」というところから始まったプロジェクト「鹿児島磨崖仏巡礼」。第3回目となる今回は、鹿児島で最大の磨崖仏「清水磨崖仏群」(南九州市)を深掘りしてみたいと思います。磨崖仏は何のために作られたのか? 月輪大梵字の意味とは? 岩に遺されたメッセージを丁寧に繙いていきます。

鹿児島磨崖仏巡礼vol.3

日時 2021年7月3日(土)18:00〜20:00
会場 レトロフトMuseo (〒892-0821 鹿児島市名山町2-1 レトロフト千歳ビル2F)
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要申込:定員15名 ←コロナ対策のため少人数です。
参加料:1000円
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≪磨崖仏≫とは?
岩壁や巨大な岩など、自然の石に刻んだ仏像(または仏教的造形物)のこと。鹿児島にはいくつの磨崖仏があるのか、その全貌は未だに不明。
「鹿児島磨崖仏巡礼」では、磨崖仏の紹介だけでなく、磨崖仏を通じて昔の人の信仰を紐解いていきたいと思っています。

<登壇者>
川田 達也
写真家。人知れず埋もれゆく鹿児島の古寺跡や風景に感銘を受け、その姿を撮り続けている。著書『鹿児島古寺巡礼』。ブログ「薩摩旧跡巡礼」。

窪 壮一朗
自称「百姓」。「南薩の田舎暮らし」代表。明治維新前後の宗教政策に関心。著書『鹿児島西本願寺の草創期』。ブログ「南薩日乗」。

竜ヶ城一千梵字仏蹟:仏教の「数は力」思想

竜ヶ城一千梵字仏蹟(部分)

竜ヶ城一千梵字仏蹟は、姶良市蒲生町下久徳にあります。

竜ヶ城一千梵字仏蹟全景

竜ヶ城磨崖一千梵字仏蹟の基調となるのは、大量の梵字です。岩壁が過剰なまでの夥しい梵字で埋め尽くされ、一ヶ所にまとめられた梵字の数では日本一だそうです。

竜ヶ城磨崖一千梵字仏蹟を前にして誰しも思うのは、どうしてこのように大量の梵字を刻む必要があったのだろうか、ということでしょう。しかも陀羅尼のような文章を刻むならまだしも、同じ梵字の繰り返しがほとんどですから、大量の梵字を刻むより、少数の大きくて立派な文字を刻んだ方がよかったのではないかと感じてしまいます。

しかしこの背景には、おそらく仏教の「数は力」思想があるのです。

日本において仏教の「数は力」思想の先蹤となったのは、奈良時代の「百万塔陀羅尼」です。宝亀元年(770)、陀羅尼を印刷した紙を納めた100万基もの木製小塔が作られました。100万基とはとんでもない数ですが、実際に100万基作られたと考えられています。「百万塔陀羅尼」の場合、大量なだけでなくかなり手も込んでいます。陀羅尼の印刷は日本最古の印刷物ですし(世界的にもかなり古い)、木製小塔も轆轤(ろくろ)が使われた精巧なものです。当時の最先端技術を使ったものといえるでしょう。

平安時代になると、10世紀の中国における越王銭弘俶(せんこうしゅく)の八万四千造塔の信仰が伝わります。「銭弘俶八万四千塔」はアショーカ王が八万四千の仏塔を作った故事を踏まえて作られた銅製の小塔で、実際に8万4000基作られたかどうかは定かでありませんが、かなり大量に作られたのは間違いありません。その実物もいくつか日本に伝来しました。なお「銭弘俶八万四千塔」のデザインは宝篋印塔のモデルになったとされます。

銭弘俶八万四千塔(奈良国立博物館

そして、おそらくは「銭弘俶八万四千塔」の伝来がきっかけになって、平安時代末期には小塔の多数造立が皇室や公家、僧侶、上級の武士たちの間に広まり盛行します。末法思想の高まりによって、「救いのない世界の到来」を感じた人びとが藁をもすがる思いで大量の小塔造立を行ったのです。その主なものは次のようになります。

保安3年(1122)白河法皇法勝寺で五寸塔三十万基供養
天治元年(1124)白河法皇五寸塔十万基造立
保延6年(1140)僧 西念六万九千三百八十四本の卒塔婆造立供養
嘉応元年(1169)鳥羽法皇八万四千基の泥塔を仁和寺紫金台寺で供養
承安4年(1174)藤原基房泥塔一万基を造立し、妻の平産を祈願
養和元年(1181)後白河法皇八万四千塔を蓮華王院で供養
建久元年(1197)鎌倉幕府戦死者の冥福を祈り五寸塔八万四千基の造立供養
建仁3年(1203)源 頼家病気平癒のため泥塔八万四千基の造立供養
建保元年(1213)源 実朝八万四千基塔供養
建保4年(1216)後鳥羽上皇七条院の菩提を弔うため八万四千基塔を仁和寺で供養
※播磨定男『中世の板碑文化』p.31より一部抜粋して作成(表現を改変した箇所がある)。

これらの造立数は、額面通り受け取ってよいものでしょうか。「八万四千」は大量であることを表す数字で、常にちょうど84,000のことを表すのではない、とされていますが、上記の表で具体的な数字が挙げられていることを見ても、少なくともこの時代では律儀に決めた数を作ろうという意志はあったようです。

数万基も作ったという小塔はどのようなものだったのでしょうか。もちろん、手が込んだ小塔を作るのは不可能でした。作られたのは、「泥塔(どろとう/でいとう)」と呼ばれる、泥を塔型で型抜きして焼成してつくる、ほんの数センチの塔でした。

泥塔自体は、奈良時代からあり、底部に小紙を納入するための小さな穴があるのが本来の形で、古くは小さなお経を収めていたのではないかと思われます。しかし平安時代の頃の泥塔は小孔がなくなっています。代わりに、小塔の塔身にお経の文字一字や梵字が刻まれていることが多いようです。このように簡易的に作成した小塔が無数に作られたのが、平安末期から鎌倉初期でした。

泥塔経(奈良国立博物館

なお上記の表で、蓮華王院で八万四千塔を供養している後白河上皇は、三十三間堂(蓮華王院本堂)に1001体もの千手観音菩薩を安置しますが、これも「数は力」思想によるものと見て間違いありません。

鎌倉時代になると、「籾塔(もみとう)」と呼ばれる小塔が出現します。これは宝篋印塔の形をした数センチの木製の塔で、中には籾が入っています(宝篋印陀羅尼が納められる場合もある)。籾を仏舎利に見立てているのです。ご飯を「舎利」というのはここからきているのかもしれません。元来、宝篋印塔は、「銭弘俶八万四千塔」をモデルにしたものですから、小塔造立のためのデザインであったと考えられます。室生寺から発見された3万7387基の籾塔が有名です。これは室町時代(14世紀)に作られたものだそうです。

江戸時代に入ると、「数は力」思想が仏像に及び、大量の仏像の造立がたびたび見られます。最も典型的なのは「五百羅漢像」です。羅漢とは、お釈迦様の弟子の聖者です。大変個性的な方々で、それぞれ特徴を違えた500人の羅漢像が各地で造られました。埼玉の喜多院、東京の五百羅漢寺、京都の石峰寺、島根の羅漢寺などが有名です。京都の石峰寺の五百羅漢は伊藤若冲がデザインして石工に製作させたもので、元来は千体以上あったといいます。

江戸時代には「一字一石経」も各所で作られ埋められました。「一字一石経」とは、一つの小さな石にお経の文字を一文字だけ書いたものです。法華経の場合が多いのですが、法華経は約7万字ありますので、7万個もの石を拾ってそこに字を書いていくのは、ただ法華経を筆写するのに比べ非常な労力を要します。それなのに、石は結局バラバラになってしまうので文章の意味は失われてしまいます。これなどは、経典の内容よりも「数は力」思想によるものと考えないと理解できないでしょう。

また、「数は力」といえば、生涯で10万体以上の仏像を彫ったと言われる円空も思い起こされます。

このように、仏教の「数は力」思想は、日本の歴史を通じて見ることができます。神道の場合は、このように計画的に大量に何かを作るということは稀です。伏見稲荷大社の千本鳥居にしても、結果的にたくさんの鳥居が奉納されて成立したもので、仏教の場合のように「八万四千」など具体的な数を決めて最初から計画的に大量に作ろうとしたのとは違います。

しかし、歴史を通じて、常に仏教の「数は力」思想が貫いていたかというとそうでもなく、「量より質」が重視された時もありました。細かい検証はしていませんが、やはり小塔造立が流行した平安末期〜鎌倉時代と、江戸時代が、「数は力」思想が盛り上がった時と見るのがよさそうです。

ともかく、竜ヶ城磨崖一千梵字仏蹟の岩壁を埋める梵字群も、仏教の「数は力」思想によるものということは明白でしょう。もしかしたら、この磨崖仏が作られたのも、小塔造立供養が流行した平安末期〜鎌倉時代なのかもしれません。

【参考文献】
播磨定男『中世の板碑文化』
奈良国立博物館「銭弘俶八万四千塔」
https://www.narahaku.go.jp/collection/p-961-0.html

円相:月と太陽と鏡

摩崖仏にはしばしば円相が表現されます。円相とは一体何なのでしょうか?

岩屋寺跡円相

円相の多くは、月輪(がちりん)を表していると考えられます。月輪とは、密教の「月輪観」に基づくものです。「月輪観」は、心の中に満月を観じ、その満月が宇宙全体を満たすようにイメージして、世界との一体感と心の清浄を観ずる基本的な観想法(イメージトレーニング)であり、例えばそこから月輪の中に梵字の阿字をイメージする「阿字観」といった観想法へと発展していく土台となるものです。

現代の月輪観の実践でも、心の中に月輪(満月)を描くだけでなく、目の前に「月輪観本尊」と呼ばれる円相を描いた掛け軸などが掛けられます。円相の多くは、おそらくは月輪観本尊として利用されたのではないかと思われ、特に月輪の中に梵字が彫られている場合は、阿字観など発展的観想法に利用されたと考えられます。

旧龍盛寺跡円相
慈眼寺跡円相

しかし、摩崖円相の全てが月輪、つまり満月と考えるのは早計です。例えば、浄土教が普及して阿弥陀如来への信仰が高まると、西に沈む夕日を阿弥陀如来に見立てて拝み、日没後も夕日をイメージする「日想観」という観想法が行われました。月と違って太陽は常に丸く、晴れてさえいれば日没が拝めるので、わざわざ石に円相を刻んで「日想観」を修したかわかりませんが、円相を太陽に見なす考え方もあったのは事実です。

ちなみに阿弥陀如来は、西域(中央アジア)の強い影響の下で生まれた仏であると考えられますが、中央アジアで行われていた太陽崇拝が取り入れられており、「光の仏」というべき存在です。阿弥陀如来は梵名をアミターバといい、これは量りしれない光を持つ者という意味で「無量光仏」とも呼ばれます。この他、同じく中央アジアの影響が強い大日如来は太陽の神格化であり、大日遍照とも呼ばれます。これらは仏教の中でも太陽信仰の性格を持つものといえるでしょう。

このように、仏教には月と太陽への信仰が目立たない形で包含されていました。円相は月であり太陽であったのです。

そもそも、仏教がインドに誕生した時も、信仰の視角化は円相から始まると言っても過言ではありません。最初期の仏教美術では、ブッダは具象的に表現されず、法輪や円光、すなわち円相によって表されました。やがて円光は光背となって仏像のシンボルになります。

また、禅宗でも円相は重視されました。禅宗でも円相を月輪と見ましたが、禅宗の場合は円相の前で月輪観を修するというよりは、円相自体を真理・完全な心の象徴と見なしていました。禅僧たちは水墨画で円相を描き、円相を問答の題材に使いました。禅の修行を牧童が牛を捕らえるのに譬えて十場面に描いた「十牛図」が円相に描かれているのはよく知られています。

頂峯院跡円相

そして、円相は鏡を表す場合もありました。日本では仏教以前から円鏡(銅鏡)を太陽に見立てて神聖なものと見なしていましたから、この考えが仏教の円相と習合していったのかもしれません。こうして日本仏教では「大円鏡智」という考え方も生まれます。これは大きな円い鏡に一切がありのままに映し出されるように、全てを明らかにする清浄な仏智を表します。仏の智慧を鏡で象徴しているわけです。

摩崖円相も、これら様々な円相の考えに基づいていると考えられます。例えば福昌寺跡に残る「鏡月巌」は、福昌寺が禅宗(曹洞宗)であることを考えると、これは月輪観を修したのではなく、「大円鏡智」の考え方で、仏の完全な智慧を表したものだったのかもしれません。

【参考文献】
上田閑照・柳田聖山『十牛図』

福昌寺跡「鏡月巌」
★告知★12月5日、報告会やります! 
↓ 
鹿児島磨崖仏巡礼vol.2 
日時 2020年12月5日(土)17:00〜19:00 
会場 レトロフトMuseo (〒892-0821 鹿児島市名山町2-1 レトロフト千歳ビル2F) 
<鹿児島市電>朝日通り電停より徒歩2分 
※会場には駐車場がありません。 
↓詳細はこちら 
http://nansatz.wp.xdomain.jp/archives/105 

要申込:定員25名 
参加料:1000円 
申込方法:↓こちらのフォームより申し込み下さい。定員に達し次第受付を終了します。 https://forms.gle/FxmVbQMqEjahFQy89